B 第3章 スカビオサの空を仰ぐ
しばらくすると彼女は起き上がり、ただ気怠そうに壁にもたれかかった。窓から差し込んだ夕日が彼女の顔に影を差した。
「どうして、泣いていたの」
心配そうな瞳と目が合う。首を絞めていたことを糾弾するわけでもなく、私が泣いていたことだけが気がかりだと、彼女の瞳が告げていた。
私は彼女の瞳に囚われたまま、返事をするのも忘れてその瞳に魅入っていた。そこに私の姿が映っていたから。数多の星屑を映していた彼女の瞳に、初めて私が映りこんでいたからだった。
「零?大丈夫?」
彼女の言葉に私はハッとし、慌てて彼女の瞳から目を逸らした。彼女の質問には答えなかった。いや、答えることができなかった。私にもなぜ泣いていたのかはわからなかったから。
「…心配して損したかな」
穏やかな声が部屋に響いた。その声は安堵していて、私をどれだけ心配してくれていたのかが理解できた。
「どうして、ここに来たの」
次に彼女の口から紡がれたのは、柔らかな糾弾だった。しかしその言葉は小さな針となって私の心に刺さった。その痛みは耐え難いものではなかったが、同時に酷く痛むものでもあった。
彼女は今しがた吐き出した言葉で私が傷ついているとは夢にも思っていないだろう。彼女は純粋な疑問を告げただけで、その表情は相変わらず私を心配していた。私は、彼女の何でもない疑問に勝手に傷ついているだけなのだ。
「…私を心配してきてくれたわけではなさそうだね」
私は彼女の方にもう一度顔を向けた。彼女の顔には先ほどよりも影が差していて、彼女は薄く微笑んでいた。その何かが欠落したような表情は今まで見たことなくて、どこか不気味で恐ろしかった。
「少し水を飲んでくるよ」
それだけ言うと、彼女はベッドから立ち上がり私の方を見ることなくそのまま部屋を出ていった。
対する私は先ほどの彼女の表情に戦慄したまま、彼女を引き留めることもできず、ただ彼女の部屋に残され、夕日によって伸びていく自分の影を見つめるだけだった。
いたたまれなさに包まれたまま、時間だけが過ぎた。水を飲みに行くと言って出ていった彼女はまだ戻ってこなかった。このまま待ち続けていたかったけれど、そろそろ六時になりかけていた。そのため、母を待たせてしまうと面倒だからと無理やり自分を納得させて、後ろ髪をひかれながらも私は彼女の部屋を後にした。
階段を下りて玄関に向かうと、ここに来た時にはあったはずの彼女の運動靴が無くなっていた。どうやら私を置き去りにしたままどこかへ出かけてしまったようだ。
置いていかれたという事実に驚いたが、彼女を責める資格は私にはない。明日彼女にどこに行っていたのか訊けばいいと思い、私はそのまま帰路についた。私を照らす夕日がどこか私を嘲笑っているように感じた。
次の日、学校に行っても彼女の姿はなかった。いつも誰よりも早く来ているはずなのに、始業時刻が近づいても、彼女が姿を現すことはなかった。
変わっていたことはほかにもあった。先生たちの朝礼が少し伸びているらしく、始業時間が少し伸びた。結局ホームルームが始まったのは、本来の一限目の開始時刻から十分以上過ぎてからだった。
いつもより遅れて教室に入ってきた担任の顔は、どこか疲れていた。私は随分と疲れているのだなとしか思わなかった。しかし担任から発された言葉は私を凍り付かせた。
「白瀬咲さんが…亡くなりました」
固まった私の指先から回していたペンがするりと床に落ちる。落ちたペンの音が、誰もが息を呑み先生の次の言葉を待っている教室に響いた。先生は最初の言葉以降、何も話さなかった。
先生が出ていった後も、誰一人として言葉を発することはなく、そのまま一限目が始まった。葬儀については参列するということだけ伝えられた。
彼女が死んだという事実を飲み込み切れないまま、私は帰路についた。彼女の死因が最後まで私たちに告げられることはなかった。ただ一つ、急死とだけしか伝えられなかった。
一人で歩く帰り道は、酷く寂しかった。隣を歩くその人はおらず、ただ風だけが吹き抜けていった。独りで帰るこの道のりは、こんなにも長く悲しいものだっただろうか。こんなにも退屈したものだっただろうか。
気づけば、私は彼女の家の近くに辿り着いていた。彼女の部屋には当たり前だが電気は付いておらず、家全体がまるで太陽を失った雨の日のように鬱屈とした雰囲気を放っていた。ご両親の姿が少し見えたが、私は面識がなく、それに随分と忙しそうで声をかけるのは憚られた。
「…帰ろう」
もと来た道を帰ろうと踵を返すと、そこには彼女とよく似た、彼女より少しだけ幼い少女が立っていた。彼女とは似ても似つかぬ赤茶色の瞳を持つ深緑の髪を高くポニーテールに結んだ彼女は、私を見て驚いているようだった。
「貴女は…お姉ちゃんの」
「…初めまして。貴女があの子が良く自慢していた妹さんね」
近所の中学の制服を纏った彼女は私の言葉に一つ涙を流した。一筋の涙は、私の前で泣きもしなかった彼女の泣き顔を想像させた。
彼女が涙を流したのなら、目の前の彼女のように、すべての美しいものも霞んでしまうくらいたいそう美しかっただろう。私は彼女の本心を見る資格を得た代わりに、彼女の涙を受け止める資格は与えられなかった。
「貴女は…姉の恋人ですね」
涙を指で拭った彼女はまだ濡れている瞳で私の瞳を捉えた。私は母に言い訳した時と同じように彼女にも否定しようと口を開きかけたが、私が否定を口にすることはなかった。私より先に目の前の彼女が口を開いたからだ。
「姉が、よく貴女が映った写真を自慢げに見せてくれたんです。これが私の恋人だよ、と。とても美しくて、私にはもったいないくらい純朴で、気高くて、瞳の中に海を飼っている人なんだって、何度も言っていました」
そんな風に私を思ってくれていたことに驚く。それと同時に、やはりどこまでも私たちは正反対であることを思い知らされた。最愛の妹に恋人だと喜んで伝えられるあの子と、唯一の家族である母に何も言えず、否定しかできない私。あの子の方が何倍も美しく、そして気高った。
「…あの子はどうして死んでしまったの」
気づけば私はそう口にしていた。姉を失って間もない彼女に訊くべきことではなかったのに、迂闊にも口から零れてしまった。
「姉は…自殺しました。海に身を投げたそうです。それ以上のことは私も知りません」
自殺と聞き、心がざわついた。一瞬呼吸の仕方を忘れ、彼女の言葉を理解し飲み込むのに時間がかかった。それでもその言葉を咀嚼し飲み込んでしまうこと以外にできることもなく、喉の奥に押し込む形で言葉を無理やり飲み込んだ。
「そう…なのね」
彼女にかける気遣いの言葉一つ見当たらず、口からは平凡な言葉しか出なかった。つくづくそんな自分が嫌になる。
「…あの子のことを話してくれてありがとう。じゃあ、私はこれで」
彼女とこれ以上一緒にいるのが耐えられそうになくて、私は笑顔を繕い彼女に別れを告げた。
あの子の面影がある彼女とこれ以上一緒にいれば、私は正気を保っていられないかもしれない。今抱えるこの醜い感情を姉を失ったばかりの彼女にぶつけてしまうかもしれない。そんな不安が頭をかすめたのだ。
「あ、待ってください」
私を引き留めた彼女は制服の胸ポケットを探ると、中から一つストラップを取り出した。それは、あの日水族館で彼女が買ったイルカのストラップだった。
「姉の形見です。私が持っているよりも、恋人の貴女の手元にある方が姉も嬉しいと思うので、お渡しします」
差し出されたストラップを私は迷いながらも受け取った。受け取ったそれを握りしめれば、柔らかな微笑が脳裏に呼び起された。
「それでは、私はこれで」
彼女は何事もなかったかのように私の横を通り過ぎていった。話している間、ずっと苦しい笑顔を浮かべたままだった。そうさせてしまっていたのは、紛れもなく私だった。
それから後のことは、よく覚えていない。
すっかり暗くなってしまわないうちに家へ帰り、母の話を上の空で聞いた。母も彼女が死んだことは知っていた。けれど、私の恋人とは思ってもいないようだった。自分の娘が大罪を犯してしまったことなど、考えてもいないようだった。
話を聞き流してシャワーを浴び、いつもより早く布団に入った。目を瞑り夢に誘われるのを待っていると、自分がなぜ今こうして存在しているのかわからなくなった。
布団から出て、制服のポケットに入れたままにしていたストラップを手に取る。あの子の笑顔が浮かび上がってくるはずなのに、無情にも、何も浮かび上がってきてはくれなかった。
ストラップを握りしめたまま、ベッドに寝転がった。そして目を瞑り、夜空を飼う彼女との思い出すべてを振り返る。
初めて出会った日、ピアノを聞かせてくれた放課後、水族館へ行った初デート、海へと何度も繰り出した短い逃避行。すべて大切な思い出なのに、彼女だけが見当たらくなってしまった。
「…貴女が死んでしまったというのに、私だけ生きているというのはおかしな話よね」
いったい、どこで間違えてしまったのだろうか。どうして私たちは結ばれなかったのだろう。
愛し合った私たちがいけないというのだろうか。それとも、同性を愛することに否定的な社会が悪いのだろうか。こんな社会にした、大人だろうか。
いいえ、違う。悪いのは大人でも社会でもない。母の偏見に立ち向かうことも何もせず、その勇気すら持てず、彼女を愛すること一つ貫けずに彼女を傷つけてしまった自分だ。
どうして私は今この場で息をしているのだろう。あの子は死んでしまったというのに。罪を犯し傷つけた私ではなくて、傷つけられただけの彼女がどうして苦しい思いをして死んでしまわなければいけなかったんだろう。疑問ばかり浮かび、過去の自分をひたすら詰った。
どうすれば、また彼女に会えるだろうか。どうすれば、彼女に懺悔できるだろうか。その思考の答えは、なんともシンプルで簡単すぎるものだった。
「…ああ、とても簡単なことだったのだわ。私も貴女のように泡となり果ててしまえばいいのよ」
愛しい王子様を殺せなかった人魚姫のように。私自身も海の藻屑と化してしまえばいいのだ。彼女が泡になったかどうかはわからないが、同じ場所に辿り着くことはきっとできるはずだ。
「すぐいくわ」
貴女は、私が命を投げ出すことを望んでいないだろう。知っている。けれど、貴女を傷つけてしまうばかりなくせに、貴女を失った私は酷く脆く弱かった。
明かりが消えてしまえば、私は暗闇の中で膝を抱えてただまた明かりを灯してもらえることを待つことしかできない、同情すらしてもらえないような哀れな少女へと成り下がることしかできなかった。
ベッドから降りて部屋を出た。一階の明かりはまだついていて、リビングを覗くと母がまだソファに座ってテレビを見ていた。
「お母さん」
私の呼びかけに母がこちらを向く。私は最後の挨拶を母に紡いだ。
「ありがとう」
そして、さようなら。
「どうしたの急に」
かけられた言葉の続きなど知りもしない母は、私の突然の感謝に驚きながらも照れているようだった。私はフッと優しく微笑み返した。
照れたままの母を残し、私はリビングを後にした。玄関からスニーカーを掴み、母の部屋の窓から外へと出た。私の着地した音はテレビの音に呑まれ、母には届かなかったようだった。家の中に母の笑い声だけが響いていた。
靴を履いて海辺を目指して繰り出した。横を通り過ぎていく風が気持ちよくて、少し鼻歌を歌いながら坂道を下った。もうすぐ死のうとしている人だとは、傍目には見えなかっただろう。
辿り着いた先は、よく話をした小屋の近くだった。ここは人目が少なく、私を止める人も、助ける人もいないだろう。
それでいい。そうでなくてはいけない。
「ああ、月が綺麗ね、咲」
初めて、彼女の名前を呼んだ。返事はない。驚きながらも微笑んで私の名前を呼び返してくれたであろうあの子は、もう、いない。
「貴女と同じ場所で、同じ時間に死にたかった。けれど、それは無理だから。だから、少しでも貴女と過ごした場所で死ねたらいいと思ってここに来たわ」
一人の少女の懺悔が、潮風に乗って浜辺へと響き渡る。半分の月は彼女の懺悔を聞き届けようとしているかのように、そこに静かに佇んでいる。
「…いいえ、違うわね。貴女がまだ生きているのではないかと、ここに来たらまた会えるんじゃないかと夢見ていたのよ。けれど、所詮夢でしかなかったわ」
悲し気な少女は一歩、また一歩と足を踏み出す。その先は月明かりがわずかに照らすだけの、暗闇に包まれた大海原。だんだんと少女の足が水に浸かり始めた。
「貴女にたくさん酷いことを言ったわね。けれど貴女に謝ることもできないまま、貴女は自ら命を絶ってしまった。貴女が死んだこの海で、酷く綺麗で醜いこの海で死ねたのなら、私は貴女と同じ所へ行けるかしら。貴女に、謝ることはできるかしら。…きっと優しすぎる貴女は簡単に許してくれるのでしょうね」
冷たい塩水が少女の腰までせり上がる。あと少しで少女の足は届かなくなり、少女は海原に飲み込まれる。それでも少女は、ただ月だけを見つめていた。愛している少女が飼っていた、藍色の星空だけを見ていた。
「簡単には許さないで。貴女が私に酷いことを言わなくなる、その日まで。私が胸を張って貴女に愛を囁ける、その日まで」
月は、聞き届けている。海も、密かに死にゆく命の懺悔を見届けようと、そこに佇んでいる。
「貴女は、死装束としてあのクラシックブルーのワンピースを着ていったのね。妹さんがどうしてあのワンピースを着ていたのか不思議に思っていたわ」
少女は彼女の妹に、彼女がそのワンピースを着て死んでいった理由を話さなかった。知らないふりをした。なぜならそれは、二人だけの幸せな記憶だったからだ。
「死装束に私との初デートの服を選んでくれたのね。どうしてか、とても嬉しかった。だから私もこのワンピースを選んだの。貴女と同じように」
少女は臙脂色のチェック柄のワンピースを着ていた。死装束には似つかわしくない色合いの服だった。けれど、少女は亡き彼女と同じ選択をしたことで、とても満足そうだった。
「ねえ咲、私は」
その時。少女は海の中へと沈んだ。何者かに足を引っ張られるように、少女は海底へと飲み込まれていく。
飲み込まれた海は酷く静かで暗闇だけが広がっていた。魚の影はなく、かつて美しいと思った海は今はただの恐ろしい怪物となり果てていた。
しかし、少女は不思議なことに怪物となった海を恐ろしいとは感じなかった。それは愛する人が命を奪われた場所だからなのか、はたまた、少女が今、愛する人と同じ場所にいけるという幸福感で満たされているからなのか。少女本人にもどうしてなのかはわからなかった。
暗い海の中で揺蕩う少女は息を吐きだした。吐き出された泡を追っていくと、淡く照らされた水面が見えた。
ふと、残る力で少女は横を向いた。そこにはあの日水族館で見たジンベイザメの幻影が泳いでいた。
少女は幻影へと手を伸ばす。しかし、その手が届くことはなく、少女の手は海の中を沈んでいくだけだった。
薄れる意識の中、少女は一つ、その幻影に向かって願った。
どうか。どうかあなたが、私をあの子の元へ導いてくれますように。
意識が暗闇に呑まれる頃には、もうその幻影は泡へとなり果てて、まるで最初から存在していなかったかのように、そこには暗闇が広がっているだけだった。
灰桜の白昼夢 桔梗ハル @yorokobu_13
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