M 第3章 ホトトギスを胸に抱いた手で

「いつからここにいたの?」

 ベッドで仰向けになったままの彼女が言う。いつここに来たっけと考えてみるけれど、先ほどまで見ていた夢ですら忘れてしまうような私には思い出すことができなかった。

 彼女の質問に答えられないまま、私は黙り込んだ。そんな私の様子に彼女が一つため息をついた。

「どうして、来てしまったの」

 その問いかけにすら私は答えられなかった。心配したのだと、貴女が死んでしまうかもしれないという恐怖に駆られたのだと、素直に口にしてしまえばいいものを。ほんの少しの羞恥心が邪魔をする。

「…私を心配してきてくれたわけではないんだね」

 その言葉にハッとして顔を上げる。彼女はいつの間にか体を起こして、窓の外に映る夕日を眺めていた。見つめる瞳は空虚だった。

「少し水を飲んでくるよ。随分長く寝てしまったせいか、喉が渇いてね」

 こちらに振り向いたときには、もういつもの彼女に戻っていた。ベッドから抜け、私の横をすり抜けて彼女は部屋のドアへと向かう。

 その時、私は一つの違和感を覚えた。いつもの笑顔の裏に、何かがあるような気がした。

 気づけば、私は彼女の手首を掴んでいた。私の突然の行動に、彼女も私の方を勢いよく振り返る。何にも浮かんでいなかった瞳の中に一つ動揺が浮かび上がる。

 しかし、彼女が笑顔を繕った先にはもう動揺はいなかった。

「どうしたの、零。私はただ水を飲んでくるだけだよ?」

 安心してくれと、まるで不安がる小さな子どもをあやすように、彼女が微笑む。そこに、私が惹かれた輝きはなかった。あるのはただの憔悴だけだった。

「…出会った時から、貴女は嘘をつくのが下手ね」

 どうしてか、私だけは彼女の嘘を見抜くことができた。夜空を飼う瞳の奥を垣間見ることができた。

「私を置いて、本当はどこへ行こうとしていたの」

 おいていかれるのを怖がる子どものように私は彼女に尋ねる。次は彼女が黙り込む番だった。

 二人の間に静寂が訪れる。微かに聞こえてくる波のさざめきが、それだけが、私たちを繋いでいた。

 ふと、彼女の口が動いた。何か言葉を紡いでいるようだったけれど、その声はあまりにも小さく、私に紡がれた言葉が届くことはなかった。

「どうかしたの?」

 口を動かした彼女に向かって問いかける。彼女は口を開いたり閉じたりして迷っている様子だったが、合わせた目を逸らさない私に観念したのか、私の問いかけに答えてくれた。

「…海に行こうとしてた」

 普通の人ならなんでもないその言葉が、私の胸に深く突き刺さる。私はいつも表面を繕っている彼女の本音を垣間見ることを許された唯一の人間だった。彼女が海に行った後ことなんて、容易に想像できた。

「そう、なのね」

 小さく動かした唇を噛む。それは悔しさからか、それとも苛立ちのせいか、わからない。私の心も頭の中も、いろんな感情でぐちゃぐちゃだ。

「じゃあ、行きましょう」

 私の一言で彼女の沈んだ瞳に一筋の光が灯る。それは、三日月の不気味な微笑のような、ほの暗さを感じさせる輝きだった。

 困惑する彼女の手を引いて私は彼女の家を出た。向かうのは、彼女とともによく朝日を眺めたあの赤い灯台だ。

 彼女の手を引いたまま、私はガードレールの横を足早に歩いた。歩いている間、車は一台たりとも私たちの横を通り過ぎることはなく、それがまた孤独を感じさせた。

 途中にある石でできた段差がちぐはぐな階段を下りると、その先には灯台が私たちを待っていたとでもいうかのように、夕日を浴びて逆光で黒く染まっていた。

 灯台の麓から海を見つめる。いつもはマリンブルーの海が夕日を浴びて茜色に染め上げられていた。穏やかに揺れる波が光を浴びて宝石のように煌めいている。

「ねえ咲」

「なに、零」 

 生まれて初めて呼んだ彼女の名前を、特別美しいとは思わなかった。けれど、どうしてか、愛おしさだけはこみあげてきた。

 目の前の彼女は私が初めて名前を呼んだことに驚いていたけれど、すぐに私に向かって柔らかな微笑みを繕った。

「私と心中しましょう」

 口から紡いだその言葉は、存外重くはなかった。それどころか、足枷を外されたかのような解放感が私を包んだ。

「…どうして?」

「幸福のある未来なんて、私たちにはありえないから」

 これは私の言葉ではない。咲が言いかけて捨てた言葉を私が拾い上げて代弁しているに過ぎない。

 それでいい。それで私は良かった。私はもうこの世界に未練など在りはしないのだから。

 あの人に何もかも縛られている日常も、愛してくれる彼女に酷い言葉しか向けられない自分もいらない。すべてを泡へと還し、ただこの海を揺蕩う、意思も感情も何も持たない存在へとなり下がりたかった。

 それはきっと、彼女も同じで。幸せになるには、私たちは絶望しすぎた。

「…本当に私でいいの。零と最期を共にするのが、こんな私で」

「咲がいいの。怖がりな私が途中で怖気づいて、貴女だけを放って生き残らないように見張っていて」

 掴んでいた手を、今度は彼女と繋いだ。互いの体温が私たちの間を流れ、互いを温めあう。絡めた指にはお互いを離さないように、離れ離れにならないように、力が込められていた。

 二人で覗き込んだ海は底が見えず真っ暗だった。相当深いのだろう。これならば、彼女だけを置き去りにすることはなさそうだ。

「ねえ咲」

「なあに零」

「あの時はごめんなさい。そして今からのことも」

 私の言葉の続きを彼女が奪う。唇同士が触れ合ったそれは、私たちにとっての初めてのキス。何ひとつ恋人らしいことをしてこなかった私たちの、最初で最後のファーストキス。それはなんだかしょっぱかった。

「謝らないで。これからのことは、私も決めたこと。零だけが背負うことはない」

 涙で潤んだ彼女の瞳の中にはもう夜空はいなかった。その瞳の中に初めて私が映っていた。

「…ありがとう」

 彼女に聞こえないような小さな声で私は呟いた。けれど、彼女には届いていたようで、今にも泣きだしそうなのに、私を救い上げてくれたあの時のように私に向かって笑いかけた。

「さあ、いこう」

 咲が海の方を向く。私もつられて海を見れば、夕日は影を潜め、夜が目覚め始めた空には一番星が輝いていた。私たちのこれから果てしなく続く暗闇の旅を照らしてくれるのか、星は力強く光り輝いている。

 防波堤のぎりぎりのところに二人で立つ。この先は海だ。飛び込んでしまえば、藻掻き苦しんで海の底に沈むのだろう。

 けれど、不思議と怖くはなかった。だって、私の隣には咲がいてくれるのだから。彼女と一緒なら、なにも怖くない。


 願わくは、私たちをこの海が覆い隠して、私たちの愛を守ってくれますように。


 そう祈りながら私と咲は生温い海へと飛び込んだ。海の中で目を開ければ、真っ黒な海の中をジンベイザメがこれから泡になる私たちを祝福するかのように悠々と泳いでいる、そんな幻が見えた気がした。

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