H 第3章 カスミソウのあの日見た箱庭の中
しばらくすると彼女は体を起こした。目が覚めたばかりということもあってあまり力が入らないようで、私は彼女が体を起こすのを手伝った。
「どうしてここに?」
彼女が首を傾げた。彼女の深緑の不揃いな髪が揺れる。
私は一瞬言葉に詰まった。私は彼女が心配でここに来たけれど、そんなこと、目の前の彼女に言ってしまっていいのだろうか。彼女を傷つけ、挙句の果てに身勝手にも心配してここに来た、なんて。
優しい彼女はきっとそれを許してくれるだろう。心配してくれただけで嬉しいと、いつもと変わらぬ声色で、表情で、言ってくれるのだろう。彼女のそういうところに甘えてしまいたい愚かな自分と、それではいけないという自分が対立する。私の頭の中は自分の感情と良心のせいでカバンの中でこんがらがったイヤホンのようにぐちゃぐちゃだ。
「・・・」
結局私は何も言えず黙り込んだ。ただ正直に心配してきたのだと、言ってしまえばよかったのに。それすらできない自分に心の中で一つ悪態をついた。
「心配してきてくれたわけでもなさそうだね」
彼女の顔を見られなくて俯いていた私はその言葉にハッとして顔を上げた。そんな言葉を発した彼女は、今まで見たことがないくらい今にも泣きだしてしまいそうな、酷く傷ついた顔をしていた。新月の夜のような光のない瞳と無理やり上げられた口角は痛々しさを超えて哀れだった。彼女にそんな顔を指せているのは私だというのに。そんな私は絶望している彼女の顔をただ見つめることしかできない。
私がひたすら後悔しているうちに彼女は布団から出て私の横に立っていた。彼女の黒い影が私に覆いかぶさって初めて、私は彼女が立ち上がっていたことを知った。
「ちょっと水を飲んでくるよ。喉が渇いちゃって」
さっきの痛々しい表情はどこへいってしまったのか、いつもと同じようにはにかむ彼女に微かな違和感を覚える。それは、目を合わせないとわからない嘘。誤魔化し上手で嘘つきな彼女が出した、世界で一番わかりにくいSOS。
「ま、待って!」
私はとっさに彼女の手首を掴んだ。掴まれた彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを繕った。
「どうしたの零。水を飲んでくるだけだよ?」
彼女のその言葉にうっかり安心してしまいそうになる。信じてしまいそうになる。この掴んだ手を離してしまいそうになる。けれど、離してはいけないのだと自分に強く言い聞かせた。
「わ、私も一緒に行っていいかしら。今日学校で会えなかった分、一緒にいたくて」
もっと他にあっただろうに、口から出た言葉は何とも恥ずかしいものだった。途端に耳まで赤くなったのがわかった。
真っ赤な顔を隠したくて、私は手を掴んだまま俯いた。勢いに任せてすごく恥ずかしいことを言ってしまったと後悔していると、頭上からクスっと笑い声が振ってきた。恐る恐る顔を上げると、彼女が小さく笑っていた。
「ごめん。あまりにもかわいくて、つい」
そう言いながら笑い続ける彼女に心底安堵した。いつもの彼女が戻ってきてくれたようだった。ずっと彼女は自分の目の前にいたというのに。
「零も行くなら財布を持っていかないとね」
私の手をするりと抜けて彼女は学校のリュックサックの中から財布を取った。彼女のその行動に、自分が意地でも手を離さなかったことは正しかったのだと戦慄した。もし、彼女の手を離していたなら。あるいは、手すら掴まなかったなら。彼女はいったいどうなっていたのだろう。
「さあ、行こうか」
今度は私と手を繋いで、在りし日のように彼女が私の手を引いて家を出た。彼女は私の方を振り返ることなく、ただガードレールのそばを私とともに歩いた。
目的の場所に着くまで彼女は一度も私の方を振り返ることも私に話しかけることもなかった。近くに響く波のさざめきに耳を傾けながら、彼女の温かな体温を感じながら歩いた。私の歩幅に合わせて歩いてくれている彼女のことが、泣き出したくなるほど愛おしかった。
彼女に手を引かれて辿り着いたのは、彼女の家の近くにある、よく二人で放課後デートしに来た海だった。彼女が汚いと言うこの海を、私は美しいと思っている。濁っていても、汚くても、命が生きているのなら美しいことに変わりないと思うから。
「ねえ、零」
やっと振り向いてくれた彼女は、この世で一番美しかった。夕日を浴びて輝く瞳には、いつものように夜空を飼っていた。堪らなく大好きで、愛しくこの世で一等綺麗な瞳だ。
「私と心中しない?」
息を、呑んだ。言葉を失った。私の罪の重さを理解した。静寂が私たちを包む。
背筋に汗の伝う感触があった。手も汗ばみ、彼女の手が汚れてはいけないからと私は手を離そうとした。しかし、それを彼女は許さなかった。逃げようとした私の手を力強く握り、もう片方の手を添えた。それはまるで、逃がしてなるものかと責めるように、逃げないでと懇願するように。今にも泣きだしそうな彼女と、私の手を包む柔らかく温かな手がそこにはあった。
「・・・私、まだやり残していることがあるの。だから、一緒には逝けないわ」
私に選択肢を委ねる彼女に対してできるだけ真摯に答えた。それは一種の懺悔であった。彼女にその言葉を吐かせてしまったのは私のせいだというのに。
「・・・そっか。そうだよね。ごめん、無理言って」
彼女の手から力が抜けていく。目の前で憔悴した彼女が笑っていた。彼女の手が私から離れ切ってしまう前に、今度は私が彼女の手を取った。まだ、私の言葉には続きがある。それを、彼女に聞いてほしい。彼女に、届けたい。
「貴女の名前を一度も呼んでいないこと。それが私のやり残していること。一度だけじゃ足りない。ずっと貴女の名前を呼んでいたい。朝も昼も夜も、人前でだって、毎日貴女の名前を呼びたい。貴女と笑いあって、くだらない話をしていたい。貴女のことをもっと知りたい。貴女にもっと触れたい。もっと同じところも違うところも見つけたい。私、貴女の好きなものも知らないのよ。恋人なのに。可笑しいでしょう?」
普段の私とは打って変わって思うがままに言葉を吐き出し続ける私に彼女は困惑しているようだ。それでいい。それでいいから、今は私の一世一代の告白を聞き届けてほしい。
「この先もずっと貴女と一緒にいたい。死ぬなんて嫌よ。生きて貴女のそばにいたいの。一緒に生きたいの。貴女の隣にずっといたい。いたいのよ。貴女をほかの誰かが幸せにするなんて嫌。私がほかの誰でもない、貴女を幸せにしたいの」
ふと、あの日私に釘を刺してきた母の歪な笑顔が脳裏を掠めた。途端、息が苦しくなり言葉が出てこなくなった。恐怖が全身を支配しようとする。
しかし、大丈夫だと、夢の中で出会ったあの子の声が聞こえたような気がした。声が聞こえて、恐怖が引いていくのがわかった。
そうだ。私があの人に縛られる必要など初めからなかったのだ。私の心も体もすでに、他の誰でもない、目の前の愛しい私の恋人のものなのだから。
「咲、私と生きてこの町を出ましょう。私と死ぬまで一緒にいて。そばにいて。もう迷わないから。貴女を傷つけやしないから。死が私たちを分かつまで、一緒に生きて」
もう目は逸らさない。私は咲の瞳をじっと見つめ、彼女からの返事を待った。夜空を飼う瞳は絶え間なく揺らいで、数分の沈黙の後、彼女はやっと口を開いた。
「こんな熱烈な告白を受けたら、零と生きるしかないじゃない」
夕日に照らされて、彼女が今まで以上に眩しく屈託なく笑っていた。つられて私も笑い返した。
「帰りはコンビニに寄らない?」
「いいけど、何を買うの?」
「貴女の好きなアイスの味が知りたいの」
償おう。私があの日愚かにも犯してしまった、彼女を酷く傷つけた罪を。
愛を語ろう。もう誰にも何にも縛られる必要などないから。
私はこれから何度だって、生きている限り、彼女に恋をする。
永遠に続くマリンブルーを見つめながら、ふと、あの日出かけた水族館で見たジンベイザメの幻が見えた気がした。繋ぎなおした手は、どこか生ぬるかった。
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