「君はある日、放課後のデートで彼女と手を繋いでいたところを、母親に見られた。そしてその夜、君は母親に釘を刺され、彼女との関係を否定した」

 あの日、いつも通り夕飯を取っていると突然母は言った。

『まさか女の子の恋人がいる、なんて、気の狂ったようなことは言わないわよね?』

 その一言だけで、この人にあの子と手を繋いでいるところを見られたのだと理解した。血の気が引いていくのがわかった。

 私はすぐさま否定し、あの子との関係も友人であることを説明した。苦しい言い訳だったと思う。それでも、母にどうしても失望されたくなかった。

 そんな苦しい言い訳でも、母は満足したようだった。それ以来あの子の話をするたび、「友だち」という言葉を所々に混ぜながら相槌を打つようになった。娘が気狂ったことを口走らないように、私たち二人の愛を嘘だと、異常だと、気持ち悪いと遠回しに言うように、母は私にたくさん釘を刺した。

「そして、無意識に募っていた母親への苛立ちと悲しみと憎悪を、あろうことか彼女に向けた」

 母と会話をすればするほど、私の心は荒んでいった。私にはあの子以外に、友人と呼べる人間がいなかったからだ。あの子は恋人であり、同時に友人でもあった。

 荒んでいくのと時を同じくして、あの子が一層輝いて見えた。その輝きが醜い嫉妬に変わっていったのはいつのことだったか。母の影に怯えて過ごす私と、両親の反対を振り切ってでも私を愛すると言ってくれたあの子が、あまりに正反対で。私はいつしかあの子が妬ましくなっていた。私とはどこまでも正反対のあの子が魅力的で、そこを好きになったはずなのに。

「君は、彼女が憎くて憎くて堪らなくなって、あの日彼女に言ったんだ!」

 目の前の彼女が私に向かって叫ぶ。私の苦悩も葛藤も、悲しみもすべて無視するかのように、ただあの子のことだけを叫ぶ彼女が、なんとも憎たらしい。

「ただの偶像である貴女に、私の何がわかるというの!」

 私はめいいっぱいの声で叫び返す。心の中の自分と同じように甲高い叫びをあげて、私の何もかもを無視する彼女へ言い返す。

「あの人の支配も、失望されるかもしれないという恐怖も、いい子でいなきゃいけないプレッシャーも何も知らない、私よりはるかになんでも持っているあの子を、私よりずっと幸せで恵まれているあの子を、少し傷つけて何が悪いというの!私はこんなにも、苦しんできたというのに!」

 喉が焼けるかというぐらい叫んだ私は彼女を睨みつけた。彼女は相変わらず何も感じさせない瞳で私を見つめながら、私の手首を離した。

「確かに君は苦しんできたのかもしれない。彼女はひどい言葉を吐いた君を許してくれるくらい優しいのかもしれない。それでも、」

 ゆっくりと、口紅が塗られているかのように赤みを帯びた唇を動かして、私に言い聞かせるように彼女は言葉を吐き出した。

「彼女を傷つけて、あんな決断をさせてしまった免罪符には、ならない」

 突き立てられたのは、ただの言葉だった。けれどそれは何よりも鋭く、私の心を貫き、そして抉った。

「彼女を傷つけたのも、あの決断をさせたのも、全部、君だ」

 次々と降ってくる言葉と事実に耐えられなくなって、私は膝から崩れ落ち、処刑される直前の罪人のように項垂れた。

 私は逃げていた。全部あの子のせいにして、自分は関係ないと言わんばかりに母に嘘ばかり並べて、あの子の言葉も愛も積み上げてきた時間と思い出すらもすべて切り捨てた。

 今さらになって、罪悪感が私を襲う。私が犯した罪はあまりにも重かった。こんなにも重い罪を、なぜ今さら自覚してしまったのだろう。もっと早くに自覚すべきだったのに。

 目を閉じればいつだって思い出せる。あの子の晴れ渡った空のように澄んだ声も、私のためだけに奏でてくれた音も、今にも折れそうなほど白く細い手も、正反対な私と唯一おそろいの目の色も、その目に映る星屑たちも、全部。どこまでも愛してやまないはずなのに。愚かな私はそのすべてを大切にできなかった。

「…あの子は、死ぬの。死んでしまうの」

 自分でも驚いてしまうくらい、か細い声が口から零れた。目の前の彼女はただ一言だけ告げた。

「それは君次第だよ」

 思いもよらない言葉に、思わず顔を上げる。彼女の言葉は、私の手の中にまだあの子の命を左右する言葉が残されていることを示唆していた。

「君がこの夢から覚めた後だ。その後の選択が、彼女の命を左右する」

 淡々と彼女が告げていく。あの子と似ているのにどこか似ていないその人は、私に選択肢を提示した。あの子を生かすも殺すも私次第。自分の掌を見れば、言葉という名の凶器がいくつも見えたような気がした。

「さあ、夜が明ける。君もそろそろ目覚める時間だ」

 空を見渡せば、もう朝はすぐそこまで来ていた。目の前の彼女の姿も、朝日に照らされて逆光で見えにくくなっていく。

「彼女を生かすも殺すも君次第だよ、零。後悔しない選択をするんだ。選んだ選択肢は、ゲームと違って、変えられないのだから」

 逆光の中消えていく彼女は、どうしてだろうか、笑っている気がした。すべてを楽しんでいるかのように、愉快に、心の底から笑っている気がした。

「…さよなら、紅」

 消えゆく彼女への手向けに彼女の言葉を紡いだ。彼女はそのまま朝日に照らされて消えていった。私は陽の光の眩しさに目を瞑った。視界はあっという間に眩しい白に覆われていった。

 次に目を覚ますと、肌に布の感触があった。両腕と両足がしびれていて、かなり長く眠ってしまっていたようだ。寝ていたのは、あの子の布団の上だった。

 未だ眠る彼女を起こさないように、そっと彼女の顔を覗き込む。鼻の近くに手を持っていくと息はしていて、彼女はまだちゃんと生きていた。実際は眠っているのではなく、気を失っているだけなのだろう。目覚めると彼女はすでに死んでいる、という状況ではなかったことにとりあえず安堵した。

 彼女の穏やかな寝顔を見ていると、その白く滑らかな肌に触れたくなった。少しだけならば、と布団の上に腰かけ彼女の顔に向かって手を伸ばす。

 血の気を感じない白い頬を片手で包み込もうとしたその時、頭の中に残るあの人の嘲笑が私を阻んだ。口元に緩やかな弧を描いた母の笑みは、私をしっかりと軽蔑していた。私が作り出した虚像なのかもしれない。それでも、私の手を止めさせ、間違った選択肢を選ばせるのには十分すぎた。

 この子さえ、いなければ。似た言葉がいくつも私の頭の中を巡り、私の手は彼女の頬から下へと下りていき、彼女の首元で動きを止めた。そのまま彼女の首に両手をかける。ゆっくり、それでも確実に力が込められていく。私の彼女を愛おしく感じる気持ちを無視して。

 彼女のか細い呼吸は、もしかすると少し首を絞めてしまうだけで止まってしまうのではないかと思っていたけれど、そんなこともなく、中々彼女の息の根は止まらない。

「…れ……い……」

 彼女の口から突然発せられた声に驚く。その声で我に返った私は首から手を離そうとした。しかし、私の気持ちなど関係ないとでも言うかのように、私の手は彼女の首に力を込め続ける。

 あと少し。あと少しでこの子を殺して殺してしまえる、この子を殺してしまうというところで彼女の目がゆっくりと開いた。

 私と同じ色をした彼女の目が、いつもは夜空のきらめきたちを映し出す瞳が、今だけは澄み渡っていた。純粋無垢な冬の夜空。塵も星も月も何も見えない、暗闇だけが広がる空。それが、彼女の瞳に宿っていた。

「……どうして泣いているの、零」

 手から徐々に力が抜けていくのがわかった。力の抜けきった手はもはや、彼女の首元に置かれているだけの状態になった。

 彼女の手が私の頬に触れる。温く、まだわずかな震えが残る指。その手を恐る恐る握りしめると、途端に自分の瞳から幾つもの涙があふれた。どうして泣いているのかわからない。ただ、この温もりを手放そうとしていた先ほどまでの自分がひどく恐ろしかった。

「ああ、泣かないで。零は…笑っている方が……素敵よ」

 自分の顔に落ちてくる雨粒の数々など気にも留めず、彼女は未だ涙を流し続ける私へといつものように愛を紡ぐ。ふわりと微笑を浮かべる彼女に、枕の上に散らばる彼女の深緑の髪色と藍の瞳が相まったからなのか、泣いていた私に同じように優しく声をかけてくれたあの夏の日の姿を重ねた。

 妬ましくも、もう元には戻れないほど愛しすぎてしまっている、大好きで何よりも大切で特別な人が、いつものように私に向かって笑いかけていた。

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