第2章 ディストピア

 いつものように目を開け、数回瞬きをした。開けた先には奥行きもわからないほどの暗闇が広がっていて、視界を漆黒が埋めていた。

 軽い睡眠で疲れが取れて軽くなった体を起こし、右も左もわからない暗闇を目も冴えないうちに歩く。何かないかと手で周りを探ると、いくつかのものに触れた感触があった。何か物は置かれているようだ。

 歩くうちに目が冴えたはずなのに、触れたもの一つ見えない光景に疑問を抱きながらも足を進める。そのまま進み続けると、自分の家の玄関のドアに似たオフホワイトのドアが一つ、何も見えなかった空間に存在していた。

 躊躇することなくそのドアに手をかけ、そのまま押した。重くも軽くもない中途半端な重さの先には、雪が降っている雪原が広がっていた。暗闇から一転して明るくなった世界はどこか悲しげで憂いげだった。

 黒くどこかおぞましい空間を出て雪原に足を踏み出せば雪を踏みしめる軽い音がした。幼い頃歩くたびに鳴った、軽くてどこか楽しませてくれる、今では煩わしくなってしまった音。その音への煩わしさを忘れ、その音にただ惹かれて、私は行く当てもないままこの広すぎる空間を歩くことにした。

 雪を踏むたびやけにリアルな音がした。夢だとわかっているのに。早く覚めなければいけないのに。あの子がきっと待っているはずなのに。私の足は止まることを知らないまま進んでいく。

 歩いていくと、白一色だった景色にピンクと赤の斑点が現れ始めた。その斑点に近寄ってみると、それらは咲きかけの梅の花だった。銀世界にちらほらと咲く桃色基調の赤い梅の花。遠目から見るその光景は、以前あの子から借りて見たミステリー映画の殺人シーンによく似ていた。雪の上に散る鮮血のなんと美しかったことか。あれ以上の美しさを私はあの子の瞳以外知らない。

 ふと、梅の花に触れたときだった。果てしない雪原の先に別の色が見えた。ピンクでも赤でもない、半紙の上にうっかり垂らしてしまった墨汁のシミのような黒。黒い服を着た誰かが立っていた。

 その黒い服を着た人が誰なのか知りたくて、あわよくば夢の覚め方を教えてもらおうという期待を抱いて、私は梅から見知らぬ誰かの元へ急いだ。

 遠く感じていた距離は存外短く、黒い服を着たその人は雪が降る中で傘も差さずに立っていた。誰かを待っているかのように曇天を見上げ、この銀世界のようにどこか愁いを秘めた瞳をしていた。

 私の足音に気づいたのか、その人は私の方に振り返った。短い桜色の髪が軽く揺れ、いつか見たあの鮮血より少し濁った深紅の瞳が私の姿を映した。

「やあ、待っていたよ」

 振り返った彼女は私に向かって、嘲笑とも微笑ともわからぬ顔で笑った。

「この雪の中、貴女はずっと私を待っていたというの」

「そうさ」

 待っているあの子とよく似た言い方。けれど、彼女のような明るさも心地いい響きもなく、ただ不快で皮肉めいた響きがあるだけだった。

「なぜ私を待っていたの?」

「君が忘れていることを思い出させるために」

 忘れていることと言われて、ピンときたものはなかった。大切な人もちゃんと覚えているし、昨日食べた夕食のメニューも覚えている。暗記が主な科目のテストはいつも満点だった。記憶力には自信がある。

「私は何も忘れていないわ」

 楽しい思い出も、あの子の胸を借りて惨めに泣いたあの日も、放課後弾いてもらったピアノの音も全部覚えている。何も忘れていることなんてない。

「いいや、君は忘れているよ。とても大切な、あの日の罪を」

 罪とは何か聞き返したかった。けれど、言葉が口から出て行くことはなく、喉に引っかかった。言葉を拒んでいるかのように、口はその言葉を目の前の彼女に対して発してはくれなかった。

「そこのベンチにでも座ろうか」

 彼女が指さしたのは、雪原にポツンと佇む一つのベンチ。積もった雪を軽く払って私たちは座った。目の前の景色は相変わらず真っ白だ。

「ねえ、貴女の名前はなんていうの」

「どうしてそんなことを聞くのさ」

「なんとなく」

「君らしくないね」

 私を以前から知っているかのような口ぶりで彼女は返してきた。いや、実際知っているのだろう。私が忘れているということを思い出させようとしてくるくらいなのだから。

「僕の名前はあかね 。瞳の色と同じ名前さ」

 紅と名乗った彼女は、あの子と違う一人称だった。「私」と自分を呼ぶ彼女に、無性に会いたくなった。

「零、今から忘れていることを思い出してもらうために君にいくつか質問をさせてもらう。ちゃんと答えてね」

「わかったわ」

 足を組んで頬杖をつきながら、彼女は私の瞳を捉えた。私に彼女が問いかける。

「まず一つ目。君は、この雪原に見覚えはあるかい」

 投げかけられた質問は、想像していたのよりも簡単だった。もっと小難しいものが来ると思っていた私は、どこか拍子抜けした。

「ええ、覚えているわ」

 めったに雪の降らない故郷で、初めて雪が積もった日があった。その日はあの子と出かけて、二人で馬鹿みたいにはしゃいで遊んだ。人生で初めて雪だるまを作って、彼女と雪合戦もした。その時間の、なんと充実していたことか。

「その日は、貴女とよく似た女の子と遊んだもの」

「…いいや。君は遊んでいないよ。君はその子と喧嘩をした。といっても、君の一方的な罵倒だったけれど」

「そうだったかしら」

 喧嘩をしたことなど、記憶になかった。思い返してみても、私の頭の中にはあの子の笑顔しか思い浮かばない。

「じゃあ二つ目。君はこの一弁だけピンク色の白梅を見て、どう思う。どう感じる」

 彼女の手にはいつの間にか手折られてきたであろう白梅の枝が握られていた。その枝には彼女のいうように、一弁だけ薄いピンク色をした花が咲いていた。

「ただ可愛らしいと思うわ。それに、とても綺麗」

「…そうか」

 彼女は何か言いたげな顔をしていたけれど、そのあと何かいうこともなかった。私から目を逸らして目を閉じ、数秒して開かれた瞳は、雨上がりの花のようにうるんでいて、悲しみが滲んでいた。

 そんな彼女の瞳に、既視感を覚える。どこかで見たことのある姿。彼女の言う通り、私は何か忘れていることがあるのかもしれない。

「それじゃあ三つ目だ。君は、誰と暮らしていたか覚えているかい」

 それは、今までの質問の中で一番簡単な質問。答えようとして口を開きかけ、ふと目を見開いた。

「…わからない、わからないわ」

 誰かと暮らしていた記憶はあるのに、それが誰なのかわからなくなっていた。父なのか、母なのか、はたまた祖父や祖母なのか。私を歪んだ笑顔で見つめる記憶の中のあなたは、いったい誰なのだろう。

「でも、その人がひどく恐ろしかったのは覚えているの」

 考えていることがはっきりとは見えない、だけど思っていることは滲ませてくる声色。怒りもせず、かといって優しく微笑みもしない変わらず笑みを湛えた顔。私を支配していた、愛でも憎しみでもない、不思議な感情。内底から這い上がってくる、どこにいても逃げられない、絶え間ない恐怖。

 そこまで考えて、誰だったのかを思い出した。あの人が私に嵌めた鎖から、私は一生逃げることはできないのだと悟った。

「思い出したかい」

 青褪めていく私の顔色から察したのか、彼女が心配そうに私の顔を覗き込んできた。

「…ええ。私が一緒に暮らしていたのは」

 そこで言葉に詰まる。一瞬その人のことを口にするかどうか迷った。言ってしまえば、今すぐにでもあの人が目の前に現れるのではないかという恐怖心に駆られた。

「大丈夫だ。あの人は君の目の前には現れない」

 私の手を彼女が包む。温かな体温が冷たい私の手に流れ込んでくる。その温かさは、暑かったあの日繋いだあの子の体温を思い起こさせた。

「…貴女は中途半端に優しいのね」

 変に優しいところまで彼女そっくりで、思わず抱きしめてしまいそうになる。そんなこと。

「赦されないのに」

「どうかしたかい」

 彼女がきょとんとした様子で私を見つめる。私は今、なんと言ったのだろう。一体何が許されないのだろう。

 私は本当に何かを忘れている。たった今確信した。自覚した瞬間、心の中の自分が叫んだ。聞くに堪えない金切り声を上げながら、涙で顔をぐちゃぐちゃにして醜く叫んでいる。それは、何に対しての叫びなのか。私の足元で縋るようにして泣き叫ぶ自分の形をした心はなんと言っているのか、私にはわからない。

「…思い出したのかい」

 今にも泣きそうな顔で彼女が聞いてくる。私は首を横に振る。パズルのピースはまだ埋まらない。繋がらない。

「わからないから、教えてほしいの。ねえ、私は何を忘れているの」

 彼女は、罪と言った。それがどんな罪なのかはわからない。だけど、きっとその罪は愛するあの子に関係している。根拠はないけど、なぜだかそう確信していた。

「それは、自分自身で思い出さなくちゃ意味がない。だから、僕は教えられない」

「…そう」

「だから、僕は質問を続ける。君が思い出すまで、ずっと。それが、僕にできる最大限のことだ」

 私の手を力強く握りながら彼女は告げた。力強いその手は、あの人の恐怖から救い上げてくれた、優しさに溢れていたあの日の手と同じだった。

「じゃあ、質問を続けるよ」

 私は彼女の目を見て頷いた。

「四つ目。君が大事だと思うのは、地位と愛、どちらだい」

 そんな質問が来るとは思わなくて、思わず狼狽えた。答えに困る質問だった。けれど、答えはとうに決まっている。

「愛よ」

 私の姿を映す紅の瞳がわかりやすく揺らいだ。私の答えがきっと予想外だったのだろう。私も、この答えを出した自分には驚いていた。あの子と出会う以前であれば、地位と答えていただろうから。けれど、教えてもらったのだ。地位も名声も何もかも捨ててしまえるほどの愛を、あの子から。

 動揺していた彼女は瞬き一つでその顔に笑顔を浮かべた。出会った時とは違う、皮肉めいていない、あの子とそっくりな優しい微笑を。

「…六つ目だ。君は、生きるか死ぬか、どちらが幸せだと思う」

 六つ目の質問を言い終える前に彼女は私から視線を逸らした。どうしてこんな難しい質問をするのかわからなかったけれど、この質問にはきっとほとんどの人がこう答えるだろう。

「生きる方が幸せなんじゃない…の…」

 途端、私の首筋に一つ冷汗が流れた。体が硬直し、一瞬時間が止まったように感じた。視線を逸らしたままの彼女を見つめると、記憶の中の一つの思い出にスポットライトが当てられた。

 舞台照明が一つの話を照らす。それは、目の前の彼女が私の思い出を否定したあの雪の日の話。学校の帰り、あの人から逃げることなどできやしないと悟ったあの日。

「…思い出したかい」

 彼女の声がやけにクリアに聞こえた。疑問がすべて払拭された世界はやけに汚れていて。空を見上げると、雲は晴れ、地平線の彼方が紺碧からオレンジに染まってきているのが見えた。朝が、近い。

「この世界は、君を断罪する空間だ。そして僕は、君が忘れてしまった罪を思い出させるために生み出された存在」

 私の手を離し、彼女は私の前に立つ。その瞳にはもう、一滴の優しさも残っていなかった。澱みだけが彼女の瞳の中に浮かんでいる。

「君はあの日、彼女に言った言葉を覚えているかい」

 逃げることは許さないと言うかのように、あの子によく似た彼女は私の瞳を捉えて離さない。ああ、この場から今すぐにでも逃げ出してしまいたい。

「覚えていないなら教えるよ。君はあの日、彼女に」

 その先を聞きたくなくて耳を手で塞いだ。けれど、彼女の手が私の両手首を掴んで耳から手を引きはがした。拒むその続きを彼女は容赦なく耳にねじ込んでくる。

「どうして貴女を好きになってしまったんだろうと、そう言ったんだ!」

 それは、普通の人が口にしたのならばなんの意味も響きも帯びない、ただの言葉。私が口にしてしまえばただの言葉ではなくなってしまう、私は口にしてはいけなかった言葉。

「私は普通でなければいけないのに。貴女を愛した事実すべてをなかったことにしてしまいたい。貴女さえいなければ」

 目の前の彼女があの日私があの子に言ってしまった言葉たちを羅列していく。言わずに飲み込んできたはずの言葉たち。実際には全然飲み込み切れていなくて、あの日彼女に牙をむいてしまった。

「君はあの日彼女に、そう告げたんだ」

 溜まりに溜まった滴が零れ落ちていく。落ちた滴は雪を溶かした。私を見つめる目の前の彼女は、傷つけてしまった愛しいあの子と真逆の色の瞳をしていた。

 

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