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ふと、足元に蠢きを感じて海の中を覗き込む。そこには変わらず私を囲むように泳ぐジンベイザメの姿があった。
「彼女と行った水族館の…人気者のジンベイザメ」
私の下をずっと泳ぎ続けていたのは、初デートで行った水族館で老若男女問わず人気だったジンベイザメだった。
私はもう一度海を見渡す。この一面に広がる海にも見覚えがあった。彼女とよく出かけた私の家近くの海だ。観光地の海より濁って穢れた海を見た彼女はいつだって、目の前の碧のように綺麗だと言った。
先ほどまでいた家にあった、素朴なあの家には不釣り合いなグランドピアノも学校の音楽室に置いてあったものだ。授業終わりによく二人で音楽の先生が弾いてくれる曲に耳を傾けた。
簡素なあの家は、近所の海辺に建っていた、彼女と海を訪れる度に暮れ行く空を見つめた小屋だ。
記憶が戻った今、視界に映るものすべてが彼女との思い出で溢れていることに気づいた。今立っているこの濁った碧緑も、ずっと私の下をぐるぐると泳ぎ続けるジンベイザメも、漆黒のグランドピアノがあった家も、全部彼女と築いてきた宝物たちだった。
だけど、彼女の名前だけがまだ思い出せない。こんなにも、思い出した世界は鮮やかなのに。彼女の名前だけがモノクロだ。
「…帰りましょう、咲」
出会って初めて、碧が私の名前を呼んだ。私が思い出すまであと一歩というところで碧が私の手を引いた。二人で歩き出す。碧の手はとても冷たかった。
水面に波紋を広げながら私たちは来た道を戻る。空を見上げると、先ほどまで澄み渡った青色が、いつの間にか一番星が輝き始めそうな夕焼けと暗闇を混ぜた色へと変わり始めていた。水平線の空を、碧のワンピースと同じ臙脂色が染め上げている。
この景色にも、どこか見覚えがあった。繋がれた手の感触も、手の冷たさも、全部。
突如、私の頭の中を一つの会話が駆け抜ける。それは、ずいぶん昔のことのように思える、夏の或る日の会話。
「××の手ってすごく冷たいね」
「そういうあなたの手は温かいわね。私たち、何から何まで反対ね」
愛おしそうに私の手を包み、涼やかな声で話す彼女。彼女の名前だけが、ノイズが混じって聞こえない。
「このまま、あなたと一緒にいたいわ」
「私もずっと××といたいよ」
普通の恋人たちのように手を繋いで近所の浜辺を共に歩く。海だけが、私たちをありのまま受け入れてくれる場所だった。ありのままの私たちでいられる唯一の場所だった。
「ああ見て。こんなにも綺麗な夕日を見たのは初めて」
「本当だね。私もこんなに綺麗な夕日を見たのは初めて。どうしてかな。夕日なんて見慣れているはずなのに。××といると、一際美しく見える」
「…どうしてあなたはそういうことをさらりと言ってのけてしまうのかしら」
照れている彼女が珍しくて、私は彼女の顔が赤いことをからかった。すると、彼女はたしか、こう言ったのだ。
「夕日のせいよ」
ああ、思い出した。愛おしすぎる、大好きで大切で仕方のない、私の罪人を。あの子が苦しんでいるとわかっていながらも愛することを止められなかった、瞳に海を飼っていた、あの子を。
「…黒田…零…。私が大好きで仕方のない人…」
私の手を引いていた碧が歩みを止める。その体がわずかに震え始め、やがてぼそりと呟いた。
「どうして、思い出してしまったの」
立ち止まったままの彼女の顔を見る。彼女の瞳が水面のように揺らいでいた。溜まりきった水は陶磁器のように白い頬を伝って海に落ちた。聞こえていたピアノの音色はいつの間にか止んでいた。
今度は私が静かに涙を零す彼女を見つめた。ぽろぽろと涙を流す、愛おしい人にそっくりな彼女は、やはり彼女に似て泣いている姿まで可憐で、そして綺麗だった。着飾らない、無垢で麗しい彼女がそこにいた。
「思い出さなければ…私といつまでも一緒にいられたのに…」
泣きじゃくる子どものようにいくつもの涙を落としながらも美しい彼女をただただ綺麗だと思った。そこまで私を愛してくれていたのか。
たとえ、私の思い出から作られた彼女であろうと、彼女が愛してくれていることに代わりはない。まるで、水によって満たされていく水槽のように、愛おしさと優越感が私の心を満たしていく。
「この世界は、私の都合のいいように作られている夢だよね。碧は、私の記憶の中に存在するあの子とよく似ている、けれど私があの子を思い出さないために生み出してしまった存在なのよね」
この世界が夢であることはわかっていた。それでも私はあの白い空間を抜けて、この海と空と彼女との思い出だけの世界で碧と出会った。何も思い出さなければ、きっとこのまま碧とあの家で過ごしていただろう。それが幸せだったに違いない。だって私は、現実が嫌で、たくさん傷ついて、現実世界にいることが辛くなってこんな夢を見ているのだから。ここまで逃げてきたのだから。
幸せしかない、なんて素敵で生ぬるくて気持ちのいい夢。たとえるならゆりかごだ。私のすべてを肯定し、ただ守ってくれる、そんな夢。
でも、このままいることもできない。たとえ現実が嫌でこの夢に逃げてきたのだとしても、私の心が目覚めたくないと叫んでいても、私は夢から覚めることを選ばなければいけない。どんなにひどい現実でも、あの子が待っているから。私の名前をまだ一度も呼んでくれていない、愛しいあの子が。
「私はこの世界から出ていくよ。居心地のいいひと時をありがとう、碧」
泣き止んだ碧は、また泣いてしまわないようになのか、眉間に皺を寄せて口をキュッと結んで私を見ている。優しくてどこまでも綺麗で、穢れが一つもない純粋な存在。あの子と似て異なる存在。
本当にありがとう、碧。私は、ジュリエットを迎えに行くよ。泣き虫な女の子の元へ帰るよ。
「そろそろ起きることにするよ。さよなら、私の愛しい思い出」
そっと瞼を閉じる。視界はあっという間に暗闇に飲まれ、途端に不安が私を襲う。けれど、碧が私の手を握ってくれたから。その冷たい手の感触は私を安心させてくれた。
手の感触はそのまま、意識が静かに暗闇の中に落ちていく。絡めた手だけが、この暗闇の中から私を現実まで連れて行ってくれる、そんな気がした。碧が私を海へと連れだした時のように手を引いて、私を愛おしい人の元まで連れて行ってくれているように思えた。
気づけば、暗闇の中に一つの光が灯っていた。眩しい、目を焦がしてしまいそうなほど強く輝く光。いつか見た、あの一等星のような力強い光。
私はその光を目指して駆けた。手の冷たい感触はいつの間にか消えていた。光に手を伸ばし、光に包まれた私がゆっくりと目を開けた、その先には。
白い天井によく包まって寝る布団の匂い。目の前には夕日を浴びて艶めく長い黒髪を垂らした零。首の気道が圧迫されていく感触。冷たい掌の温度。ピクリとも動かない自分の手。
驚いた顔で大粒の涙を流しながら私の首を絞める零の姿がそこにあった。
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