灰桜の白昼夢

桔梗ハル

第1章 ユートピア

 重い瞼をゆっくりと開ける。開けた視界にまず初めに映ったのは、降り積もった雪のように真っ白な天井だった。

 重く気怠い体を起こして辺りを見回すと一面真っ白で物は見当たらず、私はただ白い壁に囲まれていた。しかし、その真っ白で何もない空間にただ一つ、ポツンと板チョコのような形をしたミルクチョコレート色のドアだけが存在していた。

 いつまでもこの空間に居座っているわけにもいかない。寝すぎて少し痛む体を起こして、私はドアに向かって足を踏み出した。ドアにはアンティーク風の金色のドアノブが付いているだけで、ほかの装飾はおろか傷一つ見たらなかった。

 ドアを開ける前に振り返ってもう一度空間内を見回す。自分が寝転がっていた場所にも当然のように何もなく、ただただ終わりのない白い空間が続いているだけだった。それのなんと現実味がなく薄気味悪いことか。

 私は一刻も早くここから出たくなってドアノブを回した。掴んだドアノブの金属特有の冷たさだけがやけにリアルだった。

 ドアを開けた先に広がっていたのは、緑色に濁った、本来空を投影しているかのように真っ青で底まで見えるほど透明なはずの海。一面に広がる水の上に、私は立っていた。ドアも不思議なことに、海の上に存在していた。

 どこまでも広がる、果てのない海を眺める。空はまるで青と水色のペンキを満遍なく塗ったかのように澄み渡り、雲一つない。足元の海を覗き込めば、何匹もの魚が悠々と泳いでいた。その中には、汚いこの海にはいないはずのジンベイザメも泳いでいた。

 泳ぐ魚たちをしゃがんだまま眺めることにもだんだん飽きてきて、私は立ち上がって水の上を歩き始めた。足をのせたり離したりするたびにできる水玉の弾む音を聴きながら、全く濡れない足を不思議に思いつつも宛てもなくフラフラと歩く。

 澄み渡る空の青さに魅入ったり、時々立ち止まって海の中を覗き込んで魚たちの自由な泳ぎを眺めたりしながらただ歩いていると、視界の左手に一つの家が見えてきた。太陽を思い起こさせる真っ赤な屋根が特徴的な、昔読んだおとぎ話に登場していたような家。

 宝物を見つけたような高揚感に駆られて先ほどまで耳を澄ましていた水玉の跳ねる音など気にもせずにその家目指して一直線に走った。足元の魚にも、私の下をずっと泳ぐジンベイザメにも構うことなく、ただ息を切らして海の上にそびえる赤屋根の家を目指して駆けた。

 必死に走ってたどり着いた家は、随分と簡素な造りをしていた。木材だけでできた小さなログハウスは遠くから見たときよりもなんだかみすぼらしく見えた。家は海の上に立っているものだと思っていたが、実際は浜辺の上に建っていた。近くには桟橋らしきものがあったが、釣り道具が置かれているだけで、人はいなかった。家の横には木でできた、白いペンキが塗られたブランコが置かれていて、小さいころおじいちゃんの家で乗ったものとそっくりだった。

 白く塗装されたドアをノックする。軽やかな音が響くだけで中から返事はなく、勝手に入るのも気が引けて、私は桟橋でこの家の主が帰ってくるのを待つことにした。桟橋に腰掛けると、この世界に足を踏み入れて初めて、風が私の頬を撫でていった。

 桟橋から海を覗くと、ジンベイザメが私の周りを悠々と泳いでいた。私は海に足をつけてみる。不思議なことに、足は海に通らなかった。何度か水面を足で叩いてみたが波紋を作るだけで、海は私の足を拒絶しているかのように、決して海の中へ通してくれなかった。

 音は全く聞こえなかった。世界はしんと静まり返り、魚の跳ねる音すらも聞こえなかった。風も静かに横を通り過ぎていくだけで音一つさせなかった。

 なんにもない虚空の空から自分の膝に視線を落とせば、自分の着ているワンピースのクラシックブルーが視界を埋めた。その色に、どうしてか懐かしさを覚えた。

「あら、お客様?」

 ふと、背後から声がした。絹のように滑らかで春の陽光のような温かさを秘めた声色。振り返った先には、灰白色の長いストレートの髪をなびかせた、臙脂色でチェック柄のワンピースを身に纏った女の子が一人、こちらを見ていた。

「えっと、私は」

「お客様がいらっしゃるなんて、なんて久しぶりなの!さあ、こちらにいらして!」

 彼女が白魚のような手を差し出して私を呼ぶ。言葉を遮られたことには驚いたが、こちらが手を取るのを今か今かと待っている彼女があまりにも屈託なく笑っているものだから、その笑顔を曇らせたくはなくて、私は彼女の元へ早足で急いだ。

 私が彼女の差し出された手を掴むと、彼女はそのまま私の手を引いて家の前まで駆けだした。ふわりと揺れる彼女の後ろ髪に、どうしてだか既視感を覚えた。

 彼女に連れられるまま家の中に入る。中には、家の見た目にはそぐわない高そうなグランドピアノが一台と丸椅子が一脚、ポツンとただ置かれているだけだった。ピアノ近くのカウンターには何も置かれておらず、出窓には外の風景が映っていた。

「そこに座っていて、今お茶を出すわ」

「あ、お構いなく」

 彼女が指さした先は、ピアノ近くに置かれた丸椅子だった。ミックスウッドの丸椅子は、光を反射して黒く輝くピアノには似つかわしくなかった。私は、ピアノの椅子といえば音楽室のあの黒い椅子が浮かぶため、この丸椅子とピアノの組み合わせはアンバランスとしかいいようがない。

 カウンターの奥はキッチンのようで、彼女は後ろの棚からカップを取り出し、お茶を入れていた。私は特にすることもなく、かといって彼女を手伝う気にもならず、言われた通り椅子に腰かけて、丁寧に磨かれた白く重い鍵盤をそっと指で押した。聞き覚えのある音が響く。なんとなく、ピアノが弾きたくなった。

「お待たせ。どうぞ召し上がれ」

 トレーの上にカップを二つ載せてキッチンから現れた彼女が私にマグカップを差し出す。マグカップから上がる湯気が想定外で驚いたものの、私はそれを素直に受け取り口をつけた。ほのかな苦みと甘みが同時に広がる。これは、緑茶だろうか。彼女はというと、出窓に腰かけて私より上品にお茶を啜っていた。

「…あの、名前を訊いてもいいですか」

 一息ついた後、私はまだ彼女の名前を訊いていないことに気づいて彼女に名前を訊いた。私の言葉に彼女はフッと顔をほころばせ、お茶を一口飲んだかと思うと不敵に微笑んだ。

「相手に名前を訊く時はまず、自分から名乗るものではなくて?」

 私はハッとして、慌てて自己紹介を始めた。

「わ、私の名前は咲。高校二年生で部活はしてなくて、趣味は写真を撮ること。そんなに上手く撮れないけど」

 名前だけ言えばよかったのに、自分が名乗っていないことに焦った私はそこまで気が回らず、訊かれていないことまで話してしまった。しかし、まくし立てて吐き出した私の自己紹介に彼女は満足そうで、私が言い終わるのを待ってから彼女は口を開いた。

「私の名前は…そうね、碧とでも呼んで。この家でピアノを弾いたり、海を眺めたりしながら毎日を過ごしているわ」

 美しい彼女に似合う、美しい響きの名前だった。名前はその人を表す、なんてよく言ったものだ。

「咲は素敵な色のワンピースを着ているのね」

 碧が私のワンピースを見つめる。その瞳が少しだけ輝いているように見えた。

「青色が好きなの?」

「青色、というよりは綺麗なものが好きなの。この家の周りの海も青くはないけれど、とても綺麗でしょう?自分が綺麗と感じるものが好きなの」

 なんだか不思議な子だ。お嬢様口調だけれど私を見下す雰囲気はないし、あのあまりにも汚い海を綺麗という。人の感性はそれぞれだけど、私にはどうしてもあの海を綺麗だと思えなかった。どうやら彼女の瞳には、あの海が私と違って映っているようだ。

「ねえ咲、あなたはあの海が好きかしら」

 窓に映る海を眺めながら碧が私に問いかける。

「嫌いよ」

 私はサラリとそう答える。少し考えたけど、私の答えはこれ以外になかった。

「どうして?」

「だって、汚いじゃない」

 まるで、ひどく澱んでいる自分みたい。この海が誰かの感情の掃き溜めになって、汚れて濁って澱み果ててしまったように感じてしまうのだ。

「…あなたには見慣れたものだからなのかもしれないわ。見慣れたものの汚れた面を、自分の目に映してしまうようになるのは、人の性なのかもしれないわね」

 彼女の言葉は、どうしてだか私の胸に重くのしかかった。聞き覚えのある、優しく諭す声。窓辺に佇む彼女に再び既視感を覚えた。私はどこかで、この人と会ったことがあるのかもしれない。

「少し海を散歩しましょう?」

 空になったマグカップをカウンターに置いて、彼女が私の手を優しく取る。私はマグカップを椅子の上に置いて、彼女に連れられて家を出た。相変わらず黒く鈍く光るピアノが、やけに寂しそうに見えた。

 家から出て空を見上げると、相変わらず一つの濁りもない青色が広がっていた。何色にも侵されることなくただ広がるそれは私の瞳をひたすら魅了した。辺りを見渡せば、青と碧でできた箱庭が私たちを囲っていた。

「ここは広いね」

「だって海だからね」

 水の上を歩く彼女の声が空間に響いた。いつか見た、水面を歩く少女の絵のように、彼女は何のためらいもなく水の上を歩いていく。

「どこへ行くの」

 私が問いかけても彼女は何も言わない。歩みも止まることなく、ただ私と彼女の二人分の水玉が跳ねる音だけがした。

 行き先もわからないまま、私は彼女に付いていった。時に両手を広げてバランスを取るように一歩一歩静かに踏み出す彼女が、時にスキップしながら軽やかな足取りで海を駆ける彼女が、私には見た目よりも随分幼く、そして自由に見えた。まるで全てつながった一つの舞のように、彼女は水を弾ませて私の前を歩いていく。

 その姿が、誰かと重なって見えた。目の前の彼女とは似ても似つかぬ、艶のある長い黒髪。風に踊る紺色のセーラー服の襟。ひざ下の、襟と同色のプリーツスカート。しなやかに伸びた白い腕と足。すべてが印象的な、記憶の奥にしまわれた、瞼の裏にやけに焼き付いている少女の姿。

「ねえ碧。あなた、私とどこかで会ったことある?」

 私の声に碧が歩みを止める。歩みを止めた彼女の足元に一つの波紋が広がっていった。彼女は前を向いたまま、振り返らない。

 後ろを振り返ってみれば随分と遠くまで歩いてきていたようで、先ほどまでいた家は見えなかった。代わりに、今まで聞こえていなかったはずのピアノの音が聞こえてきた。放課後の誰もいなくなった後の夕焼け色に染まった廊下で聞こえてきそうな、なんだか懐かしさを帯びた、けれど繊細で埃をかぶったかのようにくぐもっていて無駄に柔らかい、そんな音。この曲を、私は知っている。

「パッヘルベルの…カノン」

 ピアノを習っていた頃、完璧に弾けるようになった唯一の曲。夕暮れの教室で、甘えるのが下手くそな彼女がねだってきた、私と彼女を繋げてくれた曲。

「…彼女って、誰のこと?」

 夕暮れ時、誰かのために教室に置かれたオルガンでこの曲を弾いていた記憶はある。けれど、その肝心の誰かが思い出せない。私は、とても大切な人を忘れている気がする。

「私の弾くこの曲を聞いていたのは、碧?」

 碧に再度言葉を投げかける。けれど彼女は振り返らない。ただ静かにそこに立っている。真実と私の言葉を一言一句答え合わせしているかのように。

「ううん、碧じゃないね。碧は知っているの、この曲を聞いていてくれた彼女を」

 碧は何も答えない。彼女は何もしらないのだろうか。いいや、きっと知っている。どうしてかそんな気がした。

「知っているのなら、教えて。私は、忘れてはいけない人を忘れている」

 彼女がゆっくりと振り返る。この海と同じ色をした、深藍の瞳が私をじっと捉えた。

「碧と対照的な髪色をしているよく似た少女を、碧ははきっと知っているのよね?どうして何も答えてくれないの」

 彼女は顔色一つ変えずただ静かに、少し青褪めた唇をキュッと結んだまま立っている。話す気のない彼女に対し、徐々に苛立ちが募っていく。

「お願い、教えて。私は彼女に会わなくちゃいけない」

 どうして会わなくちゃいけないか、なんてわからなかった。ただ言葉だけが口から出ていく。何を必死になっているのと心の中の私が嘲笑う。

「…忘れているのなら」

 ふと、今まで口をつぐんだままだった碧が口を開いた。その顔には、今までの彼女には似合わない、歪んだ笑みが湛えられていた。

「無理に思い出さなくてもいいんじゃないかしら」

 確かにそうかもしれない。私が覚えているのは、煌めいて見える思い出の端を集めたようなものばかりで、その中で一段と輝いて見えた部分しか蘇ってくれていないのかもしれない。

 それでも。

「思い出さなくちゃいけないことだと思うから」

 記憶の中の少女はとても泣き虫な気がした。私が近くにいないと泣くこともできない、無理ばかりしている女の子のような気がした。その子が、私を待っている気がするのだ。

「あの子は泣き虫で、私がいなくちゃ素直に泣けもしない人で、脆く儚くて、でも人一倍努力を積み重ねていて、そんなところに私は惹かれ…たんだ…」

 口から勝手に流れ出た言葉が私の頭の中の霧を払う。霧の晴れた視界はやけにクリアで、目の前の碧の髪は灰白色から思い出の中の彼女の黒髪へと変化していった。瞳だけが、変わらないままだ。

「私が忘れていたのは…私の…好きな人」

 瞼の奥で線香花火のような火花が散った。思い出したはずの記憶は、随分と色の褪せた世界だった。

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