むさしの今昔

kiri

·

 風の心地よさにつられて僕は散歩と洒落込んだ。

 なに、その昔ステッキひとつで散歩に出た文豪氏に倣ってみようと思ってね。

 僕だって小説を書いてみたりしているのだから、それも悪くないだろう?


 とはいえ、周りにはそれが趣味だなんて言ったら乾いた笑いを返すような人しかいないものだから誰にも言ってはいない。

 その秘密を抱えるというところにすら愉悦を覚え、それを素材に何かひとつ書いてみようかなんて思ったりするのだから、ほとほと物書きというやつは業が深いと言おうか、なんと言おうか。


 さて、と僕は歩き出す。

 雑木林がざわざわと揺れた。

 この辺り、春には桜色に染まる。今は緑一色だけれど、もう少ししたら赤や黄が色を添える。椚や楢、欅に楠、柏、椎。名前を知らないたくさんの木々も、みんなそろって天を目指す。

 風と手をつないで木々が手を振る。この季節は気持ちがいい。


 さわり


 足元になにかが触れた。

 それは僕を見上げて、にゃあと鳴く。


「なんだ、君か」

 

 頭に黒い帽子を被ったような白猫は、僕の散歩の範囲とテリトリーが被るらしい。歩いているとよく会うんだ。

 彼女と並んで歩く。


「今日は散歩日和だねえ」


 そう言うと彼女は呆れたように鼻を鳴らした。


「いつものことだけど爺むさいわね」

「悪かったな、どうせ僕はじいちゃん子だよ」


 僕のはずした返答に彼女はまた鼻を鳴らした。


「今日はどこへ?」

「まあ、気ままにね」

「独歩でも気取っているのかしら」


 気取るくらい僕も物語が書ければいいんだけどね。思いをはせるくらいいいだろう?


「そういえば、三鷹の鉄橋なくなるらしいわよ」

「太宰のかい?」


 鉄橋からみる景色が気に入っていた僕の好きな作家。

 遠く見える富士、落ちていく夕日。

 あの場所からはもう見られなくなる、なんて聞いたら彼はなんて言うだろうか。


「行ってみよう」


 白猫と連れだって歩く道。

 上水沿いの小道は桜並木の葉の重なりがいい具合に影を作る。

 彼女は並木の下を流れる小川に目を向けた。

 昔は人食川なんて呼ばれたのに、今は水量も減って橋の近くに鯉が泳ぐ。


「鯉でも取ろうってのかい」

「あの大きいのと戦うですって? 武闘家だとでも思ってるの」


 やりかねない雰囲気が漂ってるんだよなあ。


 軽口を言い合いながら着いた鉄橋には少なからぬ人がいた。最後の姿を見ておこうって考えるのは皆同じだな。

 そこから見える景色は作家の見たものとは違うけれど、広がる町での喜怒哀楽は変わっていないのだろうな。人の感情を僕は眺める。遠くから富士が同じように僕らを眺めていた。


「今日は富士山見えたわね」

「うん、お天気がよくて良かった」


 見上げた空にはうろこ雲。ぷあんと音が聞こえ足元を電車が過ぎていく。


「ひえっ」

「どうしたの?」


 思い出した。僕は橋が苦手だったんだ。

 子どもの頃、増水した川を越えなきゃならなくて怖い思いをしてからどうにも苦手で。思い出したら足が竦んで動けなくなった。

 しょうがないわね、と白猫がしゃがみ込んだ僕の手を舐める。


「大丈夫よ、ついてらっしゃい」


 憧れだけで突っ走って失敗したのは何度目だ。

 ようやく鉄橋を降り大きなため息をつく。まだ少し足が震えて膝をつく。


 するり


 慰めるように白猫がすり寄った。


「心配しなくていいよ、大丈夫」


 うん、本当にもう大丈夫さ。だって失敗するなんていつものこと。

 僕の書いた小説だってそうだ。人の目に止まったことなんてない。

 散歩に出て文豪を気取ってみたところでなんにもなりゃしない。


「下手の横好きだってのはわかってるんだ。だけど……」


 それでも僕は物語を読むのが好きで、書くのが好きで、自分の世界が好きで。

 それを紡がずにはいられないんだ。


「それで悩んで、めったに足を伸ばさないここまで来たってことなのね」


 こくんとうなずいた僕の背中に、のしっと彼女の体重を感じた。


「なにするんだ、重いよ」


 振り落とそうと立ち上がる僕。


「辛気くさいわね」


 そこからひらりと飛び降りる彼女。


「なっ……!」


 すたすたと歩き出した彼女が振り向く。その口に金属の光。


「それ! 僕んちの鍵じゃないか!」


 にゃあと、ひと鳴き。鍵を咥えてまた歩き出す。


「こら! 返すんだ!」


 ひらり


 躱す彼女をなかなか捕まえられない。そうしているうちに見慣れた町に戻っていた。

 あれ?


「木がない……」


 駅前に幹が一メートル程もある大きな木があったはずなんだ。

 あれば邪魔にも思っていたのに、切り株の影すらなくなった場所で僕は呆然と立ち尽くした。


「ちょっと前に根ごと掘り出されたみたいよ」

「そう、なんだ」


 ぽすんとベンチに腰を下ろす。

 僕の前を通り過ぎる人の流れは、まるでそれが当然かのようにスムーズで、僕だけが取り残されてしまったような心細さというか、なんともいえない気分になった。

 何百年も昔からあったあの木は、それこそ文豪達が歩いた当時もここにあったのだろう。肩を抱いて酒を酌み交わし文学談義、そんな場面も見たのかもしれないのになあ。


 そんな大きな木も簡単になくなってしまうのか。なら、ちっぽけな僕は埋もれて当然だな。

 きっと木があったことも忘れ去られてしまうのだろう。小さな出来事のひとつひとつは記憶に残ることもないのだろう。


「根を掘り起こされたって言ってたけどあの大きさだもの、きっと全部は無理だったわよね」


 彼女の言葉が脳内を横切った。

 そうか。

 根こそぎ掘り起こされても張り巡らされた根はきっとどこかに残っている。がっちりと大地を掴んで離さずに、いつかコンクリートを割って再びその腕を空に向けるかもしれない。


 植物っていうのは人間よりも強くてしぶとくて。

 だから、芒だらけの武蔵野の遠くに霞む夕暮れの富士。いつかはまたそんな風景が日常になっていることだってあるかもしれない。


「あら、帰るの?」

「うん、なんだか物語を書きたくなったんだ。この感触っていうか、気持ちだけでも書いておきたい」


 スマホの音声メモだってあるのに、なんだか気恥ずかしくて使えないんだよな。

 使い慣れたキーボードに指を走らせたい。あれなら僕の考えを引き出してくれそうなんだ。


 気づいたら駆け出していた。僕の横を白猫も走る。

 家の前であたふたとバッグを探る。鍵、鍵はどこだっけ?


 にゃあ、と足元で怒ったような声がした。


「あっ、そうか。ごめんごめん」


 彼女が鍵を咥え直して、ぽとんと僕の手に落とす。

 自分の家の鍵なのに魔法の鍵のように感じた。

 僕はドアに鍵を差し込み、世界の扉を開くようにそれを開ける。


「ねえ、書き上がった読ませてくれる?」

「そうだな、きっと書き上げるから。その時はね」


 ただいま、と僕はその扉をくぐり抜けた。

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むさしの今昔 kiri @kirisyu

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