供述・蜉?螳ウ者―はじまりのおわり

ピピピ、と鳴ったアラームの音によって、あたしの意識は、ふわり、と浮上した。

時間は朝の5時。朝起きるには少し早い時間。本音を言えば、まだまだ寝ていたい時間だ。

だけど、のんびりと寝ていられない理由が、あたしにはあった。

ぐ、と伸びをして、欠伸を噛み殺しながら、あたしはリビングへと向かう。

そこにはあたしの大好きな人の姿があって、あたしはいつもと同じように、その人影にそっと近づいた。

「おはよ、ゆーくん」

「……」

ゆーくんはなんにも言わないが、これはいつものことだ。ゆーくんは口下手で、カノジョであるあたしにさえ、挨拶もうまくできないみたいだけど、あたしは特に気にしたことはない。ゆーくんの顔さえ見られたら、それで満足だからだ。

あたしは、ゆーくんの顔をそっと覗き込んだ。ゆーくんの、ガラス玉みたいな瞳の奥に、あたしの姿が映る。

「……えへへ、ゆーくんと目が合っちゃった」

「……」

「もう!なにか言ってよう!」

何だか照れ臭くなって、あたしはべしん!と思わずゆーくんの肩を叩いた。途端、ゆーくんの身体がぐらり、と傾いで、椅子から落ちそうになる。

あたしは慌てて、ゆーくんの身体を支えた。

ゆーくんはひ弱いから、あたしがちょっと小突いただけでも、こんなふうに椅子から転がり落ちそうになってしまうのだ。自分の身体くらい自分で支える努力をしてもらいたいものだが、そう上手くはいかない。

「うわっとお……もう、ゆーくんてば、自分の身体くらい、自分でちゃーんと支えてよね!」

「……」

「女の子に支えられるなんて、情けないって思わないの?」

「……」

今日もこうやって小言を言って見るが、ゆーくんはだんまりを決め込んだままだ。本当に、あたしの話を聞いてくれているのかも分からない。

「ま、いいや。ゆーくんにはあたしがいるから大丈夫だもんね!」

あたしはそう言って、ちらりと時計を確認した。

いけない。そろそろ朝ごはんを作らなきゃ。あたしは慌てて、キッチンに立つ。

作るのは、いつだっておんなじものだ。カリカリに焼いたベーコンと、半熟の目玉焼き。それからトーストした食パンに、バターを塗るだけ。

そんな簡素な朝ごはんだけど、ゆーくんが、これがいい、って言うから。

ゆーくんのために、あたしはいつも、おんなじ朝ごはんを作る。

「……うん、いい感じ!」

カリカリに焼けたベーコンの上に、半熟の目玉焼きを乗せて。

「ゆーくん!ご飯できたよー!」

「……」

あたしはゆーくんの前に、朝ごはんを並べる。ゆーくんはその様子を、ぼんやり見つめるだけだ。

食卓にふたり分のご飯を並べ終えると、あたしはゆーくんの向かい側の席に座って、胸の前で手を合わせた。

「いただきます!」

「……」

ゆーくんは、いただきますも言わずに、目の前に並んだ料理をぼんやり見つめている。自分で食べようとすらしない。

「……仕方ないなあ」

だからいつも、ゆーくんに朝ごはんを食べさせるのも、あたしの仕事だ。

とろとろの半熟卵を切り分けて、それから、ベーコンと一緒に、ゆーくんの口元へ持っていく。

「はい、あーん」

「……」

そう言っても、ゆーくんは口を開くことさえしない。

「もう、お口開けてよー」

ムキになって、あたしはゆーくんの口元に、卵を押し付ける。べちゃり。ゆーくんの口元を卵の黄身が汚したが、それでもゆーくんは、ご飯を食べようとはしなかった。

「んもう、可愛いカノジョの『あーん』すら受け付けないって……悲しくって、泣いちゃうよお」

「……」

ぴえん、と泣き真似をしてみたって、ゆーくんはなんにも言ってくれない。次第にあたしも馬鹿らしくなってきて、泣き真似をするのはやめにした。

「……冷めちゃうし、あたしは勝手にごはん食べちゃうからねっ」

「……」

そんなあたしの声にも、ゆーくんからの返事はなかった。


……あれ。ゆーくんって。

昔からこんなに、なんにも喋らないひとだったっけ?

昔からこんなに、ぼんやりとした目をしたひとだったっけ?

「……ま、いいか」

突如降ってきた疑問を、あたしは、頭を振って一蹴する。

ゆーくんは、昔からこんな人だ。

昔から、無口で、ぼんやりしてて、お人形さんみたいに、ずっと座ったまんま、動かないようなひとだったのだ。

だから、気のせいだ。

あたしの記憶の隅に残る、やさしい笑顔を浮かべたゆーくん。

あたしを抱きしめて、甘い声で愛を囁いてくれた、ゆーくん。

そんなゆーくんは、どこにも存在しない筈なのだ。

だから、これも、全部全部気のせいだ。

部屋の壁に飛び散ったあかいろも。

朝ごはんの良い匂いに混じる、饐えた臭いと鉄の臭いも。

全部、全部。

ぜーんぶまやかしで、全部気のせい。

「ね、今日はなにしよっか。ゆーくん」

「……」

やっぱり、ゆーくんからの返事はない。

だけど、それでいいのだ。

ゆーくんが、あたしだけを見てくれるなら、それだけで。


「んふふ……ゆーくん。ずっとずっと一緒だよ?」

「……」

あたしは、ゆーくんのつめたい掌に、自分の掌をそっと重ねた。

ゆーくんのガラス玉のような瞳は、相も変わらず、あたしの姿だけを映している。


—ああ、しあわせだなあ。


あたしは思わず、くふり、と笑みを浮かべた。


饐えた臭いと、鉄の臭いが充満するこの部屋で。

あたしは今日も、大好きな大好きなこのひとと、しあわせな一日を過ごすのだ。


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アイにつける薬はない 一澄けい @moca-snowrose

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