供述・被害者―アイはきっと、そこには無かった

『ぼくのお嫁さんになってね、めあちゃん』

その言葉はまるで、呪いの言葉だと、そう思った。


藍沢芽愛、という少女に初めて出会ったのは、僕がまだ幼い頃の話だ。

芽愛ちゃんの家のご両親はなかなかに多忙で、幼い芽愛ちゃんを一人家に置いて、夜遅くまで仕事をしていたらしい。その現状に流石に罪悪感を覚えたらしい芽愛ちゃんの親御さんが、当時専業主婦だった僕の母に、芽愛ちゃんを預かってほしいと、そう頼み込んできたようだ。

僕の母親はなんというか、今時珍しいほどにお人好しな人だったから、その頼みを快諾したらしい。僕の遊び相手にもぴったりだと思ったのかもしれないが、母がどういう思惑を抱いていたか、なんて。今更聞くのも変な話だから、当時のことを、母に直接聞いたことはない。知りたいとも思わなかったし。

まあ、そういうわけで、芽愛ちゃんは、僕の家に預けられることとなったのだ。

そうして、僕は、芽愛ちゃんと出会った。


『芽愛ちゃんと、ちゃんと仲良くするのよ』

『優希、あんたの方がお兄ちゃんなんだからね』

芽愛ちゃんがうちに預けられることが決まった日。母親は、口酸っぱくしてそんなことを僕に言ってきた。だからこそ僕は、芽愛ちゃんにとって、優しくて、頼り甲斐のある「お兄ちゃん」であろうと決めたのだ。

僕は、芽愛ちゃん相手に、徹底的に「優しい僕」であり続けた。その結果、あんなに芽愛ちゃんに懐かれることとなったのは、想定外だったが。

それでも、この頃はまだ、楽しかった。芽愛ちゃんにとって僕は、近所にいる幼馴染のお兄さんで、僕にとっての芽愛ちゃんは、可愛い可愛い、妹のような存在なんだと。そう思っていられる間は、良かったのだ。

それがとんだ思い違いだったと知ったのは、芽愛ちゃんが寂しそうな顔をして『ゆーくんとずっと一緒にいるには、どうしたらいい?』と、そう尋ねてきた日のことだった。


『あたし、ゆーくんのことだいすきなんだもん!』

そう、舌足らずなたどたどしい口調で、芽愛ちゃんが僕に告げた時、僕は、目の前が真っ暗になるような心地がした。

ああ、失敗したなあ。次に思ったのは、そんなことだ。

僕は、芽愛ちゃんとの距離感を間違えた。きっと、愛情に飢えていた芽愛ちゃんにとって、僕が彼女に与えた「優しさ」は、僕を「そういう意味で」好きになる理由として、充分すぎるくらいの役目を果たしたのだろう。

ああ、どうしよう。そんなこと、言われたって困るよ。

だって僕にとって芽愛ちゃんは、妹みたいなものなんだから。

僕は、妹と恋愛なんてできない。だから、芽愛ちゃんを「そういう意味で」好きになることなんて、きっと、一生、ないのに。

だけど、だけど?ここで芽愛ちゃんに『それは無理だよ』『僕は好きじゃないよ』なんて言ったら?芽愛ちゃんはきっと、ひどく悲しむに違いない。そんなことはしたくなかった。

『それなら、結婚、するのはどうかな?』

『けっこん?』

そう思った僕が告げたのは、そんな言葉だった。芽愛ちゃんを悲しませたくない。泣かせたくなんてない。そんな一心で、僕は芽愛ちゃんに言う。

結婚のことを話せば、芽愛ちゃんはそれはもう嬉しそうに、僕に抱きついてきた。しかし、芽愛ちゃんにはまだ、心配事があったらしい。僕の胸に顔を埋めたまんまで、ぽつりと呟く。

『ゆーくんは、あたしのことすき?』

ああ、芽愛ちゃんが、今の僕の顔を見ていなくて良かったと、そう思った。今の僕はきっと、芽愛ちゃんに見せられないような、ひどい顔をしているだろうから。

芽愛ちゃんが好きかどうかと言われたら、きっと、好きだ、と答えるだろう。だけど、僕の「好き」は、きっと芽愛ちゃんと同じではない。

どうしよう。僕はこの問いに、なんと答えればいいのだろう。

悩んで、悩んで、僕が出した答えは、芽愛ちゃんに嘘をつくことだった。

『……大丈夫。ぼくもめあちゃんのこと、大好きだよ』

そう、甘い声を絞り出して答えれば、腕の中で芽愛ちゃんは、嬉しそうに身じろぐ。その様子を見て、僕は、これで良かったんだと思った。

僕のこんな嘘でも、君がそうやって喜んでくれるなら。僕はきっと、それだけでよかったのだ。

だけど、だけど。

『おおきくなったら、あたしと結婚してくれる?』

『うん、いいよ。ぼくのお嫁さんになってね、めあちゃん』

その言葉を吐き出すのは、ひどく息苦しくて。

まるで僕が僕を呪い殺すような、そんな言葉のように思えた。


それから、芽愛ちゃんの僕への好意は、目に見えてヒートアップしていった。

きっと「結婚」という言質を取れたからだろう。芽愛ちゃんは完全に、自分は僕の彼女になったのだと、思い込んでしまったらしい。

ゆーくん、ゆーくん。好きだよ。愛してるよ。

そんな彼女の言葉に、僕も嘘っぱちな、愛の言葉を返す。

僕も好きだよ、愛してるよ。そう言えば芽愛ちゃんは、嬉しそうに笑ってくれる。

その笑顔は確かに、僕が守り続けたかった、彼女の笑顔だ。

そうだった、はずだったけれど。

(……なんだか、疲れたな)

疲れた。ひどく、疲れてしまった。

芽愛ちゃんに嘘をつき続けるのも。芽愛ちゃんに、愛を向けられ続けるのも。

何もかもに、疲れてしまった。

もう、逃げてしまおうか。ふと思った。

そうだ、逃げよう。もう、芽愛ちゃんからも、君が僕に向ける、愛からも。

そうして僕は地元を離れて、東京の大学に進学することを決めた。

それを伝えたら、芽愛ちゃんは、ひどく悲しそうな顔をしていたが、もう、どうだってよかった。

もう僕に、君の笑顔を守り続ける義務はないのだから。


そうして、なにもかもから逃げるように東京の大学に進学した僕だったが、その大学生活は、概ね順調だった。

ただ、芽愛ちゃんは、僕と遠恋でもしている気分なのだろう。彼女からは毎日のように、何かしらのメッセージが届いた。

最初はそれなりに返信していたが、彼女のメッセージに返信し続けるのも億劫になって、最近では何日かに一回、返信する程度だ。

だけど、このままではまずいな、と思った。

芽愛ちゃんの中では、僕らはまだ、恋人同士ということになっているのだろう。どうにかして、その認識を変えさせたい。

そうでなければ、わざわざ東京にまでやってきた意味がない。どうすればいいのか、と考えて、僕が導き出した答えは、新しく彼女を作ることだった。

流石の芽愛ちゃんも、恋人がいる男と結婚したいなんて言わないだろう。そう思った僕は、恋人を作るべく、ひとまず合コンに参加してみることにした。

しかし、そういう場に足を運んでも、なかなか、恋人を作ることはできなかった。

いい感じの雰囲気になった人がいなかったと言えば、嘘になる。しかし、彼女たちに言い寄られると、途端に、芽愛ちゃんのことが頭をよぎって、身動きが取れなくなってしまうのだ。

怖かった。他人に向けられる恋慕の情が、ただただ怖い。

僕にとって恋や愛というものは、恐怖の対象となってしまっていたようだった。

どうしよう。このままでは恋人を作ることもできない。そう、途方にくれていた時。

「私が、その彼女になってあげたっていいくらいだよ」

僕は、ようやく出会ったのだ。

僕の彼女になっていいと、そんなことを言ってくれる、女性に。


彼女と—凪砂さんと過ごす日々は、ひどく心地よかった。

凪砂さんも、ただ、恋人がいる、という肩書きが欲しかっただけの人のようで。そしてそんな人だからこそ凪砂さんは、僕と恋愛をすることなんて、これっぽっちも望まなかったのだ。

たまに会っては食事と他愛ない話をする。たったそれだけの繋がりは、僕にとってとても有難いものだったのだ。

だから僕は、凪砂さんのことなんて、殆ど知らない。だけど、それでいいと思っていた。

近すぎず、遠すぎもしない。凪砂さんとのそんな距離感が、ただただ心地よかったから。僕はずっと、この距離感を保っていたいと、そう思ったのだ。

しかし、現実は残酷だ。そういうわけにもいかないのだと、嫌というほど、突きつけてくるのだ。

『今度の土曜日、ゆーくんのところに、遊びに行ってもいい?』

その現実を突きつけてきたのは、芽愛ちゃんからの、そんなメッセージだった。

ああ、やっぱりな、と思った。僕たちの地元は、東京からそう遠くもない。だから芽愛ちゃんなら、いつかはこうやって、僕のところに来ようとするだろうと、そう思っていたから。

だから僕は、決着をつけるならその時だろうと、そう思っていたのだ。

『いいよ。何時頃に来る?』

『昼前には着くくらいに行くよ!』

『分かった。じゃあ、鍵開けて待ってるね』

僕のそのメッセージに可愛いスタンプで了解の意が送信されてきたのを見届けて、僕は今度は、凪砂さんとのトーク画面を開く。

『今度の土曜日、僕の家に来ませんか?』

そう文字を打ち込んで、送信した。しばらくして、既読の2文字が付き、それから程なくして、返事が返ってくる。

『別に用事もないしいいよ。何時頃行ったらいい?』

『僕の家分かんないでしょうし、迎えに行きますよ。10時半に大学前で待ち合わせでいいですか?』

『うん、助かる。じゃあそれで』

そのやり取りを見届けてから、僕はメッセージアプリを閉じた。

ふるふると、手が震えているのが自分でも分かる。自分のために他人を利用している罪悪感で、どうにかなってしまいそうだった。

だけど、もう。僕にはこうするしかないから。

「……ごめん。本当に、ごめん」

譫言のように、ぽつりと呟いた。それは果たして、誰に向かっての謝罪だったのだろう。

そんなの分かりっこなかったけれど、それでも、そう言わずにはいられなかった。

どうかこれで、全てが解決してくれたらいいのに。

そんなことを考えながら、僕は眠りに落ちていった。


「あなたがいたから、ゆーくんはおかしくなったんだ」

そうしてわざと彼女たちをひき会わせた、土曜日。

凪砂さんの上に馬乗りになって、そんな言葉を吐き散らしながら彼女の身体を包丁で刺す芽愛ちゃんを見て、ああ、これでもだめだったんだ、と。その様子を淡々と眺めながら、僕はそんなことを思った。

刺され続ける凪砂さんを、助けようとは思わなかった。もともと、大した交流もしていなかった、ただの他人だ。そんな人のために、身体を張ろうとは到底思えなかった。

そんなことより、これからのことを考えることの方が、僕にとっては余程大事だった。

東京まで逃げてきても、彼女を作っても、どうやっても駄目だった。僕はきっと、もう、芽愛ちゃんから逃げることは、叶わないのだ。

幼少の頃のあの約束は、正しく、僕にとっての呪いだった。

きっとこの呪いから、僕が逃れる術はない。

凪砂さんがぴくりとも動かなくなったのを確認してから、芽愛ちゃんは、そっと凪砂さんの身体の上から立ち上がって、僕の方を見た。

怒らないの?と芽愛ちゃんは言う。変な芽愛ちゃんだな、と思った。

僕が君のすることに怒ったことなんて、一度もなかっただろうに。

その問いにうまく答えられないまま黙っていると、芽愛ちゃんは、縋るように僕の名前を呼んだ。そこにはまだ、僕に恋しているような、そんな響きが残っているような気がして、僕は確認のために、芽愛ちゃんに改めて問いかけた。

「芽愛ちゃんは、今でも、僕のことが好き?」

「うん」

即答だった。僕のことが大好きだと、芽愛ちゃんはこんなことになってしまっても、そう、言うのだ。

ああ、もう。これは僕が諦めるしかないじゃないか。

「……ゆーくんこそ、今もまだ、あたしのこと、好きなの?」

その言葉に、僕はほんの一瞬だけ答えを躊躇って、だけどすぐに、芽愛ちゃんの瞳をしっかりと見つめて、言った。

「……うん、好きだよ」

そう言えば、芽愛ちゃんは泣きそうな顔で、笑った。

どうして?僕がこう言えば、君はいつだって、嬉しそうな顔をしてくれたのに。

……ああ、そうか。

君は馬鹿な振りなんてしてるけど、本当は聡い子だから。

だから、気づいてしまったんだね。

僕が君に向ける「好き」が、偽りだったということに、君は、やっと。


「……ねえ、ゆーくん」

暫しの間落ちた沈黙を破ったのは、芽愛ちゃんが僕の名前を呼ぶ声だった。

なあに、と答える前に、僕の眼前に包丁が突きつけられた。

包丁越しに見る芽愛ちゃんは、苦しそうに、寂しそうに、笑っている。そんな苦い表情を浮かべたまま、芽愛ちゃんは僕に向かって、言った。

「あたしのために、死んでくれる?」

芽愛ちゃんが何を思って、そう言ったのかは分からない。だけど、芽愛ちゃんのために死ぬのは、別に構わないと思った。

理由なんてどうでもよかったのだ。それで芽愛ちゃんが笑顔になるなら、僕はきっと、なんだってできる。

ごめんね、芽愛ちゃん。こんなことに、なってしまって、ごめん。芽愛ちゃんから逃げようとして、ごめん。

だから。

僕はもう、芽愛ちゃんから逃げたりなんてしないよ。

「いいよ、芽愛ちゃん」

僕は、芽愛ちゃんがいっとう気に入っている、優しい笑顔を浮かべて、言った。

「君のために、死んであげる」

そう言えば、芽愛ちゃんはその表情を綻ばせて、笑った。

芽愛ちゃんがその嬉しそうな表情のまま、僕の腕の中目掛けて飛び込んでくる。

いつもと違うのは、芽愛ちゃんがその手に、包丁を持っていること。たったそれだけだ。

腕の中に飛び込んでくる勢いのまま、芽愛ちゃんは、僕に刃を突き立てた。

その痛みに立っていられなくなって、僕は床に倒れ伏す。それを見た芽愛ちゃんが、僕の隣にしゃがみ込んだ。

芽愛ちゃんは何故か泣きそうな表情で、僕を見つめている。その不安そうな表情を見て、僕はふと、昔のことを思い出していた。

芽愛ちゃんと、心変わりして恋人をこっぴどく振る男が出てくる恋愛ドラマを観ていた時のことだ。そんなシーンを見た芽愛ちゃんは、泣きそうな、不安そうな表情を浮かべて、こう言ったのだ。

『ゆーくんは、心変わりしちゃわない?』

その問いに、僕はなんと答えたんだったっけ。意識が朦朧としてきて、もう、思い出すことは叶わないけれど。

……ねえ、芽愛ちゃん。

君はきっと、ずっと、移ろいゆく人の心に、怯えて生きてきたんだろうね。

変わることを、変わっていくものを、ひどく恐れている。芽愛ちゃんはそんな子だった。

だけどね、芽愛ちゃん。

この世界にはきっと、変わらないものだって、沢山あるんだよ。

君がずっと変わらず、僕を愛し続けてくれたみたいに。永遠に変わらない想いだって、きっと、沢山あるんだよ。

そう。きっと。君が僕を愛し続けてくれたのと同じように。

きっと僕も、最初から。君のことなんて、愛してなんかいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る