第4話 命令
「ほう、オッサンがそんな事言ったか……」
暇を見てベンの元へ訪れたノアは、先日バスティアンが話した内容を伝えた。だが、特に大きな変化もなくいつも通りの態度でノアに接する。
「まあ、そんなに気にする必要はねえな」
「でもバスティアンが言うって事は……」
「いや、大丈夫だ」
ただの厩番でしかないベンが軽く断言してしまう。その態度にノアはなにか理由があるのかと、続く言葉を待つ。
「うーん、なんて言ったらいいかな。あのオッサンにはそれを決める決定権がない。それを勝手に言って良いはずもない。それはあのオッサンも心得てるはずって事さ」
「え? それってどういう」
「つまりだな……」
なんとなく奥歯にものの挟まったような言い方のベン。何か知っているようなそうでないような。
「えーと、あれだ。あのオッサンは理由もなく厳しくしねえし、ましてや坊みてえな子どもにできねえ事をしろとは言わねえよ」
と言われても実際ノアは厳しく言われたし、増えない魔力を鍛えろとも言われた。
ベンはバスティアンについて信頼しているような口ぶりだ。ノアも父親である伯爵がバスティアンを信頼しているのを知っている。不誠実な人物でないのは確かだ。だからといってベンの言うことは納得できるものでもない。
「そうだな……じゃあ、こうするか。坊は俺の事を信頼してるか?」
「そりゃもちろん。兄のような存在だと思ってるよ」
「ほう、そりゃ嬉しいねえ。じゃあその兄のような俺だけを信じろ。今は逃げたりヤケになったりする時じゃねえ。辛いかもしれねえが、しばらく堪えてみな」
◇
ベンと別れ自分の将来の先行きについて考えるノア。
伯爵家を継ぐか、その座をアルに奪われそこに仕えるか。おそらくその二択だろう。
アルとその母親であるリンダは普段からノアに出ていけと言っているが、それはノアに当主の座を奪われたくないからだ。アルが当主と決定してしまえば、おそらく出ていけとは言わなくなる。その代わり、ノアは一生アルにこき使われ可能性が高い。
「逃げた方がいいのかなあ……」
だが、ベンは逃げるなと言った。俺だけを信じろとも。
逃げたところでその後どうするのか。一人でやっていける力が自分にあるとも思えない。選択肢などないに等しい。
そんなモヤモヤとした考えに取り憑かれながら毎日を過ごすノア。必然的に表情も暗くなる。
「おいおいどうしたノア。随分暗い表情だが、ディエゴ叔父様の所に行くのがそんなに嫌か?」
屋敷内で出くわしたアル。先日のバスティアンの発言は既に知っているようだ。
当然だろう。あの場には他の従者もいたはず。バスティアンもわざわざあんな場所で言わなくても良かったのではないかと、今更ながらに考える。
「無能な貴様を我が伯爵家に残してやろうという父上の温情だ。にもかかわらず何だその態度は」
言い返す気力もないノア。調子にのったアルは更に罵倒を繰り返す。
「それともさっさと出ていくか? お前などいてもいなくても変わらん。貴様を生んだ売女のように野垂れ死ぬのも良いかもな」
――なにっ!
それを聞いたノアは全身が熱くなるほどの怒りを覚える。
自分を生んでくれた母親。その直後に死んでしまったので顔も覚えてはいないが、それでも売女呼ばわりされて平気でいられるはずもない。
「ふざけるな!」
ノアはアルに飛びかかり顔面をニ発、三発と殴りつける。突然の事に驚いたアルはそれに抵抗できぬまま殴られ続ける。
「や、やめろ! 誰か、誰かいないのか!」
アルの叫ぶ声で近くにいた者が集まりノアを止める。後ろから引き剥がされたノアはそれでもアルに飛びかかろうとしていた。
「謝れ! 母上は売女じゃない。手をついて謝れ!」
しかしノアもアルも周りの大人たちに引き離されてしまう。先程の発言を許せないノアは必死に抵抗するが、何人もの大人に適うはずもない。
「落ちついて下さいノア様」
「離せ、離せ!」
ノアと同じように連れて行かれるアルも何やらこちらへ罵声を飛ばしているが、そんなものは耳に届かない。怒りに支配されたノアは遠ざかるアルを射殺すかのように睨みつける。
自分の事ならまだ我慢できる。しかし母親に対しての侮辱は全く別だ。到底許すことはできない。許すことはできないが、今のノアに何ができるのか。あまりの悔しさにノアの瞳から涙があふれてくる。
この件はすぐにエルード・クリサリス伯爵へと報告された。そして落ちついた頃を見計らって二人は執務室へと呼び出される。
エルードと執務机を挟んで立たされるノアとアル。お互い目も合わせようとはしない。そんな二人をエルードはいつもの感情を出さない表情で見つめている。そしてゆっくりと椅子に腰をおろすと口を開きはじめた。
「まず、アル。何故ノアの母親を売女などと言ったのか」
「それは……」
口ごもりなから話しだす。
「私の母上がノアの母は下賤な平民の出身だと……きっとそういう商売をしていたに違いないと申していたので」
「それを鵜呑みにしたと。では悪いのはリンダだと言うことか」
「そ、そういうわけでは……」
下を向くアル。エルードは平坦な声で更に続ける。
「ノアの母親は私の妻でもある。アルは私の妻が売女だと言っているのか」
「い、いえ、決してそのような……」
「誰であれ、その母親を売女呼ばわりすればそれは最大限の侮辱。二度と言ってはならない。わかるか」
「……はい」
「ではノアに謝罪しなさい」
エルードからそう言われ僅かに頭を持ち上げるアル。
「ですが私は……そう、私はノアに何発も殴られたのですよ。私にも悪いところはあったのかもしれません。しかし暴力に訴えたノアだって、いや、ノアの方が悪いじゃないですか」
悪いところはあったのかもしれない。自分はそこまで気づかなかった。気づかなかったのだからそんなに悪くはない。それよりも問題なのは暴力だ。そんな子供じみた言い訳を並べ立てるアル。それを聞くノアは再び怒りがぶり返してきたが、それを抑えようと拳を握りしめる。
エルードはそんなノアへと視線を向ける。
「ノア、武力とは敵に使うものであって身内に使うものではない。侮辱されたからと言って暴力を使うのは良いとは言えない」
それを聞き俯くノア。後ろめたさからではない。エルードを睨みつけないためだ。
「暴力を使った事に関して、アルに謝罪しなさい」
「いやです」
即答するノア。その瞳は鋭さを増しエルードに突き刺さる。それを見て一瞬だけ気まずそうな表情を見せる。
ノアもアルも譲る気は全くないようだ。だがエルードから見て、より深刻なのはノアの方だろう。
普段は優しく大人しい少年がこれ程の意思を見せている。そして自分に対しても憎悪の籠もった目を向け始めていた。
「アル、今回の話はここまでだ。戻ってよい。ノアは残りなさい」
二人を交互に見たアルは、その言葉に頷きながら部屋を後にした。
そして部屋にはノアとエルードだけが残った。考えてみれば今まで二人きりになどなった事もない。妙な静寂が部屋に漂う。
「どうして謝罪しなかった」
「アルも謝罪していません」
「アルが謝罪したらお前もするのか」
「…………」
静かに交わされる二人の会話。それは嵐の前のように、水面下では大きなうねりを含んだもの。エルードもアルもそれを理解している。
「父上は何故……何故そんなに冷静でいられるのでしょうか」
「…………」
「僕は古い使用人から、父上は母上を大変愛していたと聞いた事があります。その母上を売女などと言われて何故平気でいられるのでしょう」
「…………」
「母上を愛していなかったという事でしょうか。それとも既に亡くなった人間などどうでもいいと」
「…………」
静かに語りかけていたノア。その拳はワナワナと震えている。次の瞬間、両の拳は目の前にある机に叩きつけられた。
「何故答えないのですか!」
ノアの瞳から溢れるのは憎しみの入り混じった涙。
毎日のように罵られ、馬鹿にされ、出ていけと言われる。自分だけの事なら我慢しよう。しかし、その我慢をしたために出来た傷はなくなったわけではない。心に刻まれた傷は癒える事なく残っているのだ。
目の前にいる自分の父親が、まだアルの事を怒鳴ってでもくれたら堪える事も出来ただろう。
だが、父親はそれをしなかった。ただ諭しただけだ。
それはノアの、父親に対する不信感が芽生えた瞬間でもあった。
「何故父上は怒らない! 何故だ、何故あのような暴言を許す。ふざけるな!」
何度も何度も拳を叩きつけるノア。それを見るエルードはいつもと変わらず感情を表に出すことはない。いや、僅かに揺れてはいるのだろう。しかしその変化はノアに届くものではなかった。
「落ち着きなさい」
それでも静かにそう告げるエルード。そして、不可解な一言を口にした。
「ベンの言葉を思い出せ」
ノアはハッとする。それは厩番のベンの事だろうか。伯爵家で最上位に位置するエルード、片や最下位に位置する厩番のベン。その二人になんの接点があるのか。
それよりもエルードの言うベンの言葉とは。
「ほう、そりゃ嬉しいねえ。じゃあその兄のような俺だけを信じろ。今は逃げたりヤケになったりする時じゃねえ。辛いかもしれねえが、しばらく堪えてみな」
思い出されるのはこの言葉だ。逃げるな、ヤケになるな、堪えてみろ。
ノアは今、その言葉を違えようとしている。それで本当に良いのだろうか。わからない。何が正解なのか、何が正しいのか。
ふと見ると、エルードは目を赤く腫らしている。
――泣いている!? 何故。
もうわけがわからない。ノアには何がなんだか意味がわからない。
しかしエルードはその表情に相応しくない言葉をノアに告げる。
「もうノアとアルを一緒にしておく事はできない」
そして最後の言葉が放たれた。
「ノアはディエゴの元で学ぶ事を命じる」
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