第8話

 夜空の隅にある夕焼けの名残は、なんだかいい匂いがしそうだ。

 仕事帰りの車窓から空が伺えた。おれは、藍色の夜空の奥に煌めく、小さな赤い夕焼けを眺め、考える。どんな匂いがするだろうかと。

 最近は、めっきりそういう話を口にしなくなった。

 奥さんがいたりすれば、そういう会話もできるのかな。ぼんやりと考えた。

 なんだか今日はひどく疲れている。昔からの夢だった保育士という仕事は、園児への優しさだけではやっていけないらしい。

 子ども、かわいいけど……。

 空を眺めながら、電車に揺られる。だんだんと眠気がまぶたにのしかかる。アナウンスが、降車駅に近づいていることを知らせた。なんとか眠りをこらえた。

 灰色の駅が見える。電車は緩やかにスピードを落とし、止まった。派手な音を立ててドアが開き、おれはそこからホームへ降りた。

 改札を抜けてそのまま、駅の外に出た。

 さっき窓から見えた夕焼けは、もう姿を消していた。夜空にはいくつか明るい星が散らばっている。山の端に、まん丸の月も見えた。

 山の端に、満月。

 おれはその光景を立ち止まって眺めた。

 と、携帯電話が鳴る。画面を見ると、水野家という表情と、赤と緑の電話マーク。

 真琴からだ。

 社会人になってからというもの、忙しい上に生活拠点も離れ、親友とさえ交流が乏しくなってしまった。真琴と最後に言葉を交わしたのは、一年前の今くらい。転んで顎を四針縫ったと、真琴の方から電話をしてきた。

 久しぶりの真琴。疲れも忘れて、すぐに電話に出た。

「もしもーし」

『あ、もしもし。こんばんは。神崎さん』

 電話の向こうから聞こえた声は、真琴の声ではなかった。柔らかい女性の声。おれはこの声を知っている。真琴の奥さんだ。

 真琴と真琴の奥さんは、高校時代に付き合ってからの仲だそうだ。真琴にとってははじめてできた恋人が奥さんだという。

「あー、奥さんですか。どうもー。どうしました?」

 真琴じゃないのを残念に思いつつも尋ねると、奥さんは少し口ごもった。

『ええ、あの……急に電話しておいて、こんなことを言うのもあれなんですけれど……』

「はい」

 しばらくためらった様子のあと、奥さんは意を決したふうに、こう言った。

『信じてくださらなくても構いません。うちの夫が、その……虎に、なってしまいまして』

 虎に。

 なってしまった?

「……はあ」

 なんとか返事をする。

 なんか、聞いたことある話だぞ。

 ちなみに今、おれと真琴は二十八歳だ。おじさんと言われたら、まあおじさんかもしれない。

 虎に……?

『勝手なお願いだとは思うのですが、神崎さんに会いたいと、夫が申しておりまして……。お忙しいかと思いますし、無理には』

「行きます」

 奥さんの言葉を遮ってしまった。

「全然行きます。今から行きますよ」

 腕時計を見やる。七時二十一分。真琴ん家方面の電車は、あと十分ほどで来るはずだ。

「待っててねって、伝えといてください」

 電話を切る。もう一度改札をくぐる。

 一人ホームに立ち、思考を巡らす。

 携帯をいじり、去年真琴から届いた写メを確認した。顎を縫ったという報告の写真。

 ……やっぱり。顎の傷の場所、同じだ。

 携帯をかばんにしまい、ひとつ息を吐く。

 めちゃくちゃ焦っている。心配している。

 なのに、少し笑ってしまう。笑ってはいけない状況だとは、わかっているのだけれど。

 なるほど、高校生の頃のあれ、あの人は、君だったのか。

 息を吐いた分、吸う。

 夏の夜の匂いがする。

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山に月、君は太陽 秋野いも @akino-99

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