第7話

 おおおおおおおおおおおん。

 鋭い遠吠え。見える顔は、険しい獣の表情をたたえていた。

 もうこの狼は陽ではない。

 分かっているけれど、真琴はその獣の身体から離れられなかった。

 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。

 腕の力は緩めない。筋肉が破裂するほど、きつく抱きしめる。

 

 風が吹いた。


 風になぶられた芝生が、シャーッときつい音を立てた。真琴のシャツが膨らむ。髪の毛が、体毛が、掻き回される。

 狼は吠え続ける。真琴はすがり続ける。

 風がどんどん強くなる。強くなって、鋭くなって、二人を荒く包み込む。

 ひどい風だ。真琴の腕の中で、狼の灰色の毛がちぎれて散らばる。

 灰色が、風に舞う。



 どれだけ経っただろうか。

 目を閉じて耐えていた真琴は、風の音が弱まるのを感じた。

 身体が重たい。そして感覚が変だ。風にぶつかり過ぎてしまったせいか、皮膚が麻痺したらしい。腕の中のふさふさが、ふさふさに感じられない……。

「うわ、おれ丸出しじゃん」

 すぐ近くで、聞き慣れた声がした。真琴は怪訝に思う。まぶたを開く。

 さっきまで狼にしがみついていたはずだった。

 が、今真琴の腕におさまっているのは、肌色の皮膚を持つ、一人の人間だ。

 裸の背中の出現に、真琴は一瞬戸惑った。しかし、その人物が真琴を振り返り、ひまわりのような笑顔を見せたとき、真琴の目からは涙が溢れた。

「ただいま、真琴」

 月の光を受けて輝く大きな目。にっこり弧を描く、大きな口。鼻は控えめ。正面から見たその顔が、ニコちゃんマークみたいだと真琴は思った。

 その明るい笑顔に、真琴もつられて笑顔になった。

「……おかえり。陽」


 久しぶりに見た、人間の陽。

 真琴の記憶よりも、痩せているようだった。が、腕と脚にしなやかな筋肉がついている。

 それを伝えると、陽は楽しげに笑った。

「一ヶ月間、ドックフードばっかり食べて、がむしゃらに走ってたからねえ。肉体改造されててもおかしくないよね」

 陽は久しぶりの自分の身体が、嬉しくて仕方ないようだ。立ち上がって関節を曲げたり伸ばしたり、手のひらでぺたぺた触ったりしている。

 真琴は陽の隣に立つ。まじまじと陽を見つめる。

 ああ、そうだ。

 陽はこのくらいの背の高さだ。少しだけ自分よりも目線が低い。そして背筋がしゃんとして、まっすぐ地面から伸び生えたように立っている。

 陽の身体が戻ってきた。

 そして、陽の心も戻ってきた。

 昔と同じように、当たり前のように隣にいる。

 真琴の視界が歪んだ。陽の身体の輪郭が、ふらふらと揺れる。

「真琴、また泣いてんの」

 陽が笑った。真琴は両手を目に当てる。

「別にいいだろ。陽がいなくなって、めちゃくちゃ怖かったんだよ」

 そう言うと、陽はもっと笑った。

 朗らかな笑い声。苦痛なんて吹っ切れたのだろうか。それとも、まだ腹の底にくすぶっているのを、隠しているだけか。

「心配してくれて、ありがとね」

 声に笑いを残したまま、陽が言った。涙を拭いた真琴は、ぼろぼろ泣いて笑っている陽を目にした。

「陽だって泣いてるじゃん」

「そりゃあ泣くよ。俺だって怖かった」

 陽は下を向いて、手で涙を乱暴にこする。ほらそうやって、泣き顔隠そうとする。真琴は口角を下げた。

「あのさあ、真琴」

 涙を拭った陽が、困ったような笑顔を浮かべて、真琴を見つめた。

「おれ、もう一回みんなに優しく生きてみる」

 みんなに優しく。

 それは、小学校中学校と、陽をたった一人で苦しめた生き方だ。元来の優しさを嫌いになってしまうほど、陽を苛めた生き方。

「苦しくならないか」

 真琴は、ぽつりと尋ねた。もう陽には、苦痛を───狼になるほど抱え込んでほしくない。そう思った。

 陽はにっこり笑った。

「その苦しさを受け入れて、生きてくんだ」

 その笑顔の、強いこと。

 真琴は唇を噛む。どこまでも優しい陽の出した、優しい結論だ。否定はしない。できない。

 陽は、頭を掻いて付け足した。

「それに、真琴がいるから。そう思ったら多分、一人で抱え込んでるって気にはならない、と思う」

 二人の間を、柔らかい風が吹いた。

 そうだ、と真琴はうなずいた。ずっと隣にいたおれが、陽のことを見ててやるんだ。陽が悲しくなったら、苦しくなったら、その都度おれが慰めればいい。

 真琴はうなずいた。何度も噛みしめるように、うなずいた。

 それを見て、目を細めた。ようやく救われた。そんな表情だった。

「帰ろっか、真琴」

「……うん」

 陽は身を翻した。公園の出口に向かって、ゆったりと歩いてゆく。真琴もそれに続こうとし───ハッとした。

「陽、その格好で帰ったら捕まる」

 陽はぴたりと足を止めた。自分の身体を見下ろして、あー、と声をあげる。

「なんか隠すものない?」

 真琴は、来ていたシャツを脱ぎ、陽の下半身に巻きつけてやった。前は隠れたものの、尻が丸出しだ。

「なんか白ふんどしみたいなんだけど」

「白ふんどしでも、まだましだろ。隠す意欲を世間に伝えるのは大事だよ」

「意欲って」

 二人、並んで歩きだす。くだらない会話をぽつぽつと交わして。そうだ、この方がいい。人間の資格がないだの、お前は優しいだの、そんなクサイことを言い合って大泣きするより、ばか話して笑い合う方が、自分たちには似合っている。真琴は頭を掻いた。

 ふいに、真琴のズボンのポケットで、スマートフォンが揺れた。

「ちょっとごめん、陽」

「うん?誰かから連絡?」

「うん」

 スマートフォンの画面に、母親からのメッセージの通知が映し出された。メッセージアプリを起動し、確認する。

『陽くんのお家に迷惑かけすぎないでね』

 どうやら、母親は真琴が陽の家にいると思っているらしい。時刻を見れば、八時をとっくに過ぎていた。

 真琴は、母親に『もう帰る。遅くなってすいません』とメッセージを送信した。

 アプリを閉じようとして、ふと笹本からのメッセージを目にしてしまった。

『水野くんの優先順位の中で、わたしたちってどこらへんの位置なのかな』

 返事をしていないメッセージ。そのままアプリを閉じてしまおうとしたが、思いとどまった。

 陽はずっと長いこと、人のために苦しんでいたんだよな。

 陽を見やる。彼は夜空を見上げ、高い位置まで昇った満月を眺めていた。

 真琴は陽の心の内を聞いた時、後悔した。今まで生きてきて、陽の抱えていた苦痛を経験してこなかったことを、悔しく情けなく思った。

 そして人間に戻った陽の力強い笑顔に、心を打たれた。

 おれも今から、優しくなれるかな。

 真琴は、笹本のメッセージをタップした。キーボードに指を滑らせる。

 苦痛を味わってもいい。自分が幸せでなくてもいい。ただ、陽の今までを、人のために使ってきた時間を、思い知りたかった。近づきたかった。

 送信ボタンを押す。

 ───水野くんの優先順位の中で、わたしたちってどこらへんの位置なのかな。

『おれは笹本が一番好きだよ』

 はじめて、どうでもいい人のために、優しい嘘をついた。なるほど、なんだか心がもたつく。

 真琴は息をつき、スマートフォンをポケットにしまった。

「ごめん、待たせた」

「もう済んだ?」

「うん。帰ろう」

 陽の隣にいるときは、こんなにも心が軽いのに。真琴はぼんやりとそう思いながら、陽とともに歩きだす。

 陽が眺めていた月を見上げた。

 街灯の少ない町の上で、満月は日の光を受け、つやつやと輝いていた。

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