第6話
真琴は言う。
「お前なんて、誰も傷つけてるうちに入らないよ。本当に自分勝手なのはおれだ」
陽は黙って耳を傾けている。真琴を見る目はやはり曇っている。が、けして目をそらすことはなかった。
「昔から、自分さえよければそれでいいって思ってた。自分と、その周りの狭い関係だけで十分だって。だから学校でも、陽にさえ優しくいられればよかったんだ。
そうしてたせいで、おれは周りが見えなくなってる。きっと、自分で分かっていないうちに、たくさんの人を傷つけてると思う。だけどおれは、そのことで心を痛ませたりできない。
おかしくないか。
陽の理屈で言えば、自分勝手な生き様に気づけない奴は、人間でいる資格がないんだろ。
そうしたらおれは、人間の資格がなさすぎるよ。
なのにおれは人間の姿をしてる。夢に説教するだけのおじさんが出てきたこともないし、もちろん狼になった経験もない。
な、だから違うんだよ。お前が気づけなかったこと。
陽はなにも、自分勝手なせいで狼になったわけじゃないんだよ」
そこで一度、真琴は言葉を切る。
陽は、切れた言葉の先を求めるように、ゆっくりと瞬きをする。
真琴はまた、口を開いた。
「おれは思うよ。陽はさ、自分の苦痛がピークになってることに気づけなかったから、狼になったんだ」
だから、もう気に病まないほうがいい。
陽は返事をしなかった。また、ゆっくり瞬きをして、そうして───涙をこぼした。
ぽろ。ぽろ。
鋭い目から、まん丸の涙がこぼれ、地面に落ちて消える。泣き声もあげず、陽はただ涙を流した。
真琴はもう何も言えなかった。黙って、陽の涙が芝生を濡らすのを見ていた。
静かだ。
今は何時だろう。山の端に、陽の涙のようにまん丸の月が輝いていた。
真琴は目を閉じる。また耳を澄ませて、何かを聴こうとした。
蝉の鳴き声も車の音も、相変わらず。今は近くで、しずくが落ちる音もする。そして───。
『五』
あ。真琴は目を開く。陽を見る。
「ご、って……聞こえた」
呟くと、陽は涙に濡れた目で真琴を見つめた。
「え……?」
「カウントダウン、おれにも聞こえた。五、って、今」
風が吹く。芝生がしゃらりと音を立てる。
真琴と陽は、顔を見合わせる。
『四』
まただ。また真琴にも聞こえる。
ああもう終わる……。真琴は目を伏せた。このカウントダウンが聞こえるようになったのは、せめて陽が人間でいる最後の瞬間を、この目で見届けるためかもしれない。そう思った。
突然、陽が勢いよく立ち上がった。
真琴はハッとして、尋ねた。
「どうしたんだよ、陽」
陽は座り込んだままの真琴を見据えた。瞳からは、さっきまでの曇りが消えていた。
「行かなきゃ」
陽は呟くように言う。
「行かなきゃって……どこにだよ」
「もうすぐ狼になるんだよ。ここにいたらさ、真琴のとこ食い殺しちゃうかもしれないじゃん」
そう言って、陽は駆け出そうとした。
冗談じゃない。
真琴は、とっさに陽にしがみついた。両腕を陽の首に絡みつけて、体重をかける。
「何してんの、真琴。離してよ」
「嫌だ」
せっかく隣にいたのに。小学校、中学校、そしてこの今日という日も。
優しい陽を、最後まで優しいと讃え続けるのが、自分の役目だ。真琴はそう信じている。
陽自身すら、自分の優しさに気づけないのだ。それでは、今まで彼が優しさのために抱えてきた苦悩は?そのせいで人でなくなった陽は、いったいなんのために過去を空費したのだと言うのだろう。
けして陽の優しさは無駄じゃなかった。人のために自分を傷つけたことも、誰かを傷つけたといって心を痛めたこともすべて、無駄ではない。
それを証明しなければいけない。ずっと隣にいた真琴が、最後までそばにいなければいけないのだ。
「そうやってまた人のために、自分だけいなくなろうとする。六年生のときと変わってない」
「離せったら」
「嫌だって言ってるだろ。離さ……あっ」
真琴の腕から、陽の身体が抜けた。すかさず陽は走り出す。真琴は腕を伸ばして、陽のしっぽをわしづかんだ。そのまま引っ張り、またしてもしがみつく。それを何度も繰り返した。
真琴が陽を押さえつける手に力を込めたとき、二人の間で無機質な声が聞こえた。
『三』
互いに、動きが止まる。真琴の腕の中で、陽が身体の力を抜いた。
「もういい、降参。おれの負け。───最後まで、真琴の隣にいるよ」
その言葉に、真琴はほっと息をついた。
「よかった」
「うん。……離せよ」
真琴にしがみつかれたまま、陽は身体をよじらせる。灰色の毛がぐしゃぐしゃになっている。
「嫌だ。逃げられたらおしまいだし」
真琴はそう呟いた。自分で言っておきながら、悲しくなってくる。どっちにしろもう終わるのだと。
『二』
また、男の声が冷たく告げる。
「なんでだよ、本当に意味が分からない」
真琴は、陽のふさふさの背に、額を押し付けた。
「嫌だよ。なんで狼になるんだよ。なんで陽が、……ああ、もう……」
陽は背中が湿っぽいことに気づく。身をよじることをやめ、だらりと真琴に寄りかかった。
「……ほんとにね」
陽の口から、今までで一番弱々しい声が発せられる。陽もまた、自分の声を耳にして、涙がこみ上げてきた。
「意味分かんないよ、おれも」
さわ。風が、優しく芝生を撫でる。二人のことも、慰めるように撫でてゆく。
『一』
ああ、この声ほんとうにむかつく。偉そうに。人の気も知らないで。真琴は唇を噛む。歯を食いしばる。それでも涙は流れ落ちる。
陽のこぼした涙が、抱きしめる真琴の腕に落ちた。その温かさに、真琴の胸がぎゅうと痛くなる。真琴は、どうしようもないほど悔しくなった。陽の身体を抱く腕に、渾身の力を込めた。
このまま人間の陽がいなくなりませんように。
そして。
『零』
最後の数字が、頭の奥に響いた。
その瞬間、陽の身体が跳ね上がった。真琴の腕の中で小刻みに震え始める。
「陽」
声をかける。返事はない。
「よう……」
おおおおおおおおおん。
突然、陽が猛り声をあげた。天高くを見上げ、腹から吠える。
ああ……。
真琴は目を閉じた。
ほんとうに、ほんとうにおしまいだ。
陽はいなくなった。
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