第5話

「───夢の中でおじさんは、お前は気づかないだとか、気づけない、って何度も言っていた。

 ずっと気になってた。おれは何に気づかなきゃいけなかったんだろって、いっぱい考えた。何かに気づきさえすれば、おれは狼にならなかったのかって、そんなことも考えた。

 一ヶ月考えて、考えて、だけど考えたってだめ。すぐ諦めた。

 だけど、今日夢でおじさんに会って、起きてカウントダウン聴きながら山月記読んで、なんかちょっと思ったんだよね。

 もしかしたら、おれが気づけなかったものって、自分自身のことかもなって、そう思ったんだよ。

 聴いてくれる?

 おれはずっと、真琴みたいになりたいと思ってた。笑わないでね。理想だったんだよ。

 真琴ってみんなにいい顔しないじゃん。そういうところが羨ましかった。

 自分を持ってる真琴に対して、おれは真逆だ。誰にでも、全方向に愛想振りまいてるの、自分でも自覚してるんだ。

 取り繕いまくって、嫌いな奴のことも好きだって言う。ずっと笑ってる。それってすごく苦しいんだ。

 言いたくなかったけど、この際言わせて。おれは小学校も中学校も、自分の本心を取り繕い続けてた。ごめんね。実はずっと苦痛だったんだよ。

 だから、高校では変わろうって思った。

 真琴みたいになったら、せめて自分の好きな人だけを好きって言えたら、だいぶ楽になれる気がして。

 だけど、おれは真琴とは違ったみたい。

 真琴みたいにうまく過ごせない。あんなに当たり前に、自分の必要なものだけ拾って歩けなかった。

 真琴はすごいね。

 おれは駄目だ。不必要に周りにきつくなっちゃう。みんな眉をひそめてる。───結局、おれは苦しいままだ。

 それでもって、おれはばかだから、悪い方向に進んでいっていることに気づかない。今はこんなだけど、いつかきっと思うように生きていけるって、ばかみたいに信じてた。

 おじさんは、それに気づけって言おうとしてたのかもね。

 そうやってさ、他人も自分も苦しめてるくせに、のうのうと自分のためだけに動いていたんだ。李徴じゃないけれど、こんなんじゃ人間でいる資格はなかったのかもしれない。

 間違わないでね。真琴の生き方は、人を傷つけるようなものじゃないよ。ただ、その生き方をパクったおれが、勝手に使いこなせていないだけ。

 こんなんだったら、小中学校のときと同じように、自分一人で苦しんでいたら良かった。誰も巻き込まないで、せめてみんなにはいい思いさせとけばよかった。嫌な言い方だね。

 自分が楽になれる可能性になんか、頼らなければよかったんだ。

 ああ、もう、嫌だ。

 今さら気づいたところで、もう遅い。今、カウントダウンが十を切った───もう、どうしようもないよ、もう」


 陽の口から溢れるのは、嫌悪、否定、憤悶、そして苦痛。すべて、今まで彼が必死になって隠してきたものだった。

 真琴は息を飲む。

 昔から、底抜けに明るくて、丈夫で、まっすぐな少年で───それを疑うことはなかった。

 だが、その身体一つに、たった一人苦痛を抱えこんでいた。真琴は想像してゾッとする。息が詰まる。肩が重たい。それをずっと、一人で……。

 正直、真琴には想像することしかできなかった。真琴は、陽が味わってきたような苦痛を、避けて通ってきたのだ。誰かと無意味に感覚を共有することも、歩幅を合わせるのも、真琴は経験してはいなかった。

 悔しくなる。情けなくなる。

 大切にしたいと思う友達が、こんなにも苦しんでいた。なのに自分はその苦痛を知らない。

 ふと、真琴は思い出した。

 五年分しかない、陽のマラソンの記憶。泣きそうに笑うあの顔。

 ああ。

 足りないのは六年生のときの記憶だ。小学校生活最後のマラソン大会、あの日陽は学校を休んだ。仮病を使って、休んだ。

 マラソン大会の前日に、毎年二位の同級生に泣き付かれたんだと陽は言っていた。おれがいるせいであいつ二位なんだ、そう言って陽は泣きそうに笑った。その年のマラソン大会では、毎年二位のその同級生が一位を獲った。

「そうじゃない」

 気づいたときには、真琴は目の前の陽に言っていた。目の前の、あのときとは違う姿の陽に。

「陽は、ばかなんかじゃない。優しいんだ」

 灰色の瞳が、真琴を見つめて揺らいでいる。思い切り心の内を吐露した後だ、その瞳には疲れと悲しみが浮かんでいる。

「陽は、優しいから。必要なものだけ拾って歩くのは辛かったんだろ。必要なものだけ拾うって、ほかを捨てるのと同じだから。……陽は捨てられない。優しいんだよ」

 真琴は絞り出すように声をあげる。

 陽の苦しみは、分からない。だけれど九年横にいた。その人となり、どうしようもなく優しい性格だけは、真琴が一番よくわかっている。

 陽のことを『優しい』と言える権利が、真琴にはきっとあるはずなのだ。

「そうやってさ、真琴はおれのことばっかり甘やかすんだ」

 陽は力なく笑った。語尾が震えていた。

 狼の耳は垂れ、心なしか体毛も萎れている。

 もうすぐ終わる、陽の本当の姿。

 真琴は息を吐く。

 声を張り上げる。

「人間の言葉が分からなくなる前に、おれの話も聴いてよ」

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