第4話

 陽が、大切に紡ぐ言葉。

 真琴は、ゆっくりとうなずいた。

「うん」

「昨日真琴に教えた、おじさんの夢。あの夢のと同じような夢を見たんだよ」

 興奮した口ぶりではなかった。落ち着いていて、真琴に理解してもらうために語りかけているようだった。

「夢の中でさ、その人は言ったんだ。狼になったのに、まだお前は分からないんだな、って。声が怖いんだ。だけど本当に何のことやら分からなくて、おれ訊いたんだ。その人に、誰なんですかって訊いた。だけど答えてくれなかった」

 真琴は、ただうなずいていた。口を挟むどころか、相槌を打つことすらためらわれた。今はただ、陽の発する言葉を、漏らさず耳に収めたいと思った。

 陽は続ける。

「答える代わりに教えてくれたことがあって。───その人は、虎になったって言うんだ」

「虎?」

 黙って聴こうと思っていた真琴だったが、思わず聞き返してしまった。

「そう、虎」

 なんて妙な会話だろうか。人が虎になるだなんて。しかも、狼がそう言うのだ。

「そんなこと言われて、その後すぐに夢から覚めた。で、本当に変なのはここからだよ。朝になって起きるだろ。起きたら、目を開けるじゃん。目を開いた瞬間にさ、『百』って言う声が聞こえたんだ」

 穏やかだった陽の声に、わずかに力がこもった。

「男の人の声。あの、夢に出てくるおじさんの声なんだよ。まさか、って思ってたら、また聞こえるんだ。『九十九』って、数を数える声がおれの頭に直接響くんだよ」

 わずかだった声の力みが、どんどん強くなっていく。きっとその出来事に、陽自身もまだ理解できていないのだろう。

「おじさんの声だ、って分かったとき、おれは夢の内容を一気に思い出した。虎になったってやつ、それを『なんかどっかで聞いたことある話だなあ』って夢の中で思ったことも、思い出した。現国の教科書にあったんだよ、そういう話。えっと」

 陽はそこで口ごもった。

 人が虎になる話。真琴の使っている教科書には載っていない。だが、真琴はそれを知っている。

「山月記?」

 小説の題名を呟くと、陽が叫んだ。

「それだ!」

 真琴が山月記を読んだのは、中学一年生のときだった。なんやら意味が分からず、とりあえず人が虎になったという内容だけは記憶していた。

「その話でさ、主人公は虎になるでしょ。おじさんと一緒だって思ったら、急に読みたくなったんだよ。だからのぞみにページを開いてもらって、教科書に載ってるのを読んだ。現国の授業真面目に聞いてなかったから、理解できないところもあったんだけど、ちゃんと最後まで読んだんだ。───それでさ。最後まで読んだとき、頭の中で『九十八』って聞こえた。そのときにさ、なんか分かっちゃったんだ」

 ここで一度、陽は黙ってしまった。陽の声が止まると、他の音が鮮明に聞こえる。真琴は陽の沈黙の中、耳を澄ました。蝉の鳴き声、車の走る音、どこかの家から聞こえる、鍋をかき混ぜる音。それらの音に混じって、陽の鼓動や血が流れる音が聞こえる気がした。

 再び、陽は話を始めた。

「分かったっていうか、勘づいたんだろうね。頭の中で聞こえる、数を数える声、これがなにかなんとなく予想がついたんだ」

 真琴には見当がつかない。山月記とそれになんの関係があるのだと、眉をひそめる。

 ふう。暗闇の中に、陽のため息がこぼれた。

「これはカウントダウンだと思うんだ。今も聞こえた、『十八』って。朝に百から始まって、ゆっくりゆっくり若い数になって……もう十八になってる。このカウントダウンさ、ゼロになったらおれ、本物の狼になっちゃうんじゃないかな」

 ばかみたいな話だ。

 真琴は、目を閉じる。鼻から息を吐き出す。

 ばかみたいな話だと思うのに、きっとそうだとうなずいてしまいそうな自分が嫌になる───真琴は目を閉じたまま、瞼に力を込める。

「嘘だ。現実味がない」

「だよね。だけどさ、もう身体は狼だもん。見た目だけが変わっておいて、中身がずっとそのままなんておかしいじゃんか」

 真琴は目を開いた。陽の苦笑いが、暗闇の中に浮かんでいた。目が慣れたのだ。陽は、真琴が思っていたよりずっと、寂しそうな目をしていた。

「もしおれの予想が当たって、おれが心まで狼になっちゃったら、もう真琴とは話せなくなる。だからさ、まだ心が人のうちに話したかったんだ」

 心が狼になるなんて、そんなばかな。

 山月記はフィクションなんだぞ。

 ばかなこと思いつくよな、考えすぎだよ。

 そんなふうに、笑い飛ばしてやりたかった。それなのに、真琴の目の前にいる陽の姿が、それを押し止める。人間が、狼に変貌しているのだ。目の前にその証拠があるのに、どうして陽の言うことを笑い飛ばせるだろう。

「状況は説明したから、あとはおれが真琴にずっと言いたかったこと言うね」

 この濃い話は、陽にとって、前置きに過ぎなかったらしい。真琴は背筋を伸ばした。

 もしも陽の予想が当たってしまったなら。真琴の頭の奥が、ちくりと痛くなる。夜の公園と陽の自白。いつもと違う状況が、真琴の不安を煽る。

「真琴」

「うん」

 陽が、至極真剣な顔で言う。

「めっちゃごめんなんだけど」

「……なに」

「おれ信じられないくらい喋るかも」

 ただならぬ雰囲気に構えていた真琴だったが、思わず笑ってしまった。

「分かった。好きなだけ喋れよ」

「あは、ありがとう」

 陽が笑い声をあげた。わずかに張り詰めていた空気が緩む。

 そうして、陽の信じられないくらい長い自分語りが始まる。

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