第3話
丸公園、という名前がついているものの、別に何も丸くない。それが、陽のお気に入りの公園だった。
一般的な高校の体育館と同じくらいの広さに、青い芝生がきれいに生えている。ベンチはあるが、遊具はない。よく言えば開放感のある、悪く言えば殺風景な場所だ。
「真琴、リード外して」
ずっと犬役に徹していた陽が、真琴に訴えた。太く長いしっぽを振り、今にも駆け出したいといった様子だった。
「どうやって外すの、これ」
のぞみに尋ねたつもりだったが、彼女はすでに公園の隅のベンチに座り、耳にイヤホンを突っ込んでいた。離れた場所から、真琴と陽にヒラヒラ手を振っている。
「銀色の金具あるでしょ。そこで首輪から紐外すんだよ」
自分の首を目だけで見ながら、陽が説明した。
真琴は、かがんで陽の首輪に手をかけた。フックで繋いであるリード紐を外してやる。
「はい」
陽はありがとうとお礼を言い、突っ走って行った。「ありがとう」の「とう」が風に溶けてほとんど聞こえなかった。
青い芝生の上を、灰色の塊が転げ回る。恐ろしく速い。そういや陽は小さい頃から足速かったな、と、真琴は思い耽る。
走るのが好きで、いつでもくるくる走り回っていた陽。小学生の頃のマラソン大会は、毎年必ず一位を獲っていた。
いや、違う。毎年ではない。
真琴の記憶の中に、一位の賞状を手にして笑う陽の姿は五つしかない。六年間の中の五年分。
一年分足りない笑顔の記憶の代わりに、泣きそうな目で笑う陽の顔が、真琴には忘れられないでいる。
ああ。真琴は息を吐く。
懐かしい思い出は、現実を無意味に焦らせる。
姿が変わった陽も、狭い世界でしか暮らせない自分も、きっとこのままではいけない。そう思っていても、真琴の頭は空回りしてしまう。
たまらなくなって、真琴は走り出した。
柔らかい芝生に足が浅く沈む。草の匂いが舞う。
胸の奥に引っ付いた焦燥感をごまかすように、真琴はがむしゃらに走る。
真琴に気がついた陽が、しっぽを振って駆け寄ってきた。ものすごいスピードでやってくるものだから、陽は勢いを止められず、真琴は避けきれず、文字通り正面衝突してしまった。
ぐうん。
二人の身体がぶつかった音と、風が切れる音が、空気の中で混じる。二人は、芝生の上に倒れ込んだ。
「ごめん、真琴。大丈夫?」
「狼恐ろしいわ。でかいから圧もすごいし」
「ごめんー」
ベンチに座っているのぞみが、大丈夫かー、と叫んだ。真琴は、大丈夫でーす、と叫び返す。
真琴と陽は、立ち上がりもせず顔を見合わせる。真琴はあぐらをかいた。陽は、犬の基本座り(ハチ公みたいな座り方のことだ)になる。
「今ちょっと、我に返ったよ」
陽が真面目な顔をして言った。真琴は思わず吹き出した。さっきまで大はしゃぎしていたくせに、落差がすごい。
真琴が笑ったのを見て、陽もゆるりと笑った。
「狼になったらさ、理性が緩くなっちゃって困る。走りたくなったら走っちゃうし、食べたいと思ったらもう口に咥えてんの。やばいね」
ずっと走り続けていたというのに、息があがっていない。狼だからだろうか。真琴はわずかに走っただけで、肩を上下させているというのに。
再び、のぞみがベンチから叫ぶ。
「暗くなったよー、そろそろ帰ろうよー」
真琴は空を見上げる。夕焼けの名残すら消えて、若い夜空の藍色が広がっていた。明るい星がひとつふたつ、輝き出している。
陽が、声を張り上げて返事をした。
「ごめーん、のぞみは先に帰っててー」
真琴は陽の顔を覗き込む。陽は妹を見つめている。陽の視線の先で、のぞみがベンチから立ち上がった。
「じゃあ置いてくからねー」
暗がりの中で、のぞみは二人に手を振った。のんびりとした足取りで、公園を去っていった。
「一人で帰らせて危なくないか?」
息が落ち着いた真琴は、陽に尋ねた。陽はゆったりうなずく。
「のぞみは夜に一人でコンビニ行ったりするから。暗いの慣れてるんだ」
そうなんだ、とうなずき返し、真琴はポケットからスマートフォンを取り出した。時刻を確認する。十九時十六分。もう夕方とは言えない時間になっていた。
夏の夜の匂いがする。
草を冷たい温度で焼いたみたいな、不思議で心が踊る匂いだ。
「真琴。もうちょっとしたら帰るからさ」
陽が言った。
「だからさ、少しだけ、ここで喋ろうよ」
少し落ち着いた声だった。真琴はこの声を聞き慣れていない。しかし、聞き慣れない声よりも、声の奥に潜んだ寂しそうな響きのほうが、真琴は気になった。
「いいよ。喋ろう」
薄闇の中で、陽の姿はほとんど真琴には見えない。
声だけだ。真琴には、陽の表情を読み取る術が、その声だけだった。
陽はうん、と小さく唸ったあと、「あのさ」と切り出した。
「昨日の夜、久しぶりに夢を見たんだ」
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