第2話

 教室の窓から、夕方の甘い色の空が見える。桃色から卵色、そして空色へのグラデーション。真琴は、こっそりそれに見惚れた。

「何見てんの」

 そう尋ねるのは、笹本という女子。彼女は真琴の恋人である。

「水野くんていつも窓のほう見てるよね」

 真琴は、視線を笹本に移す。

「教室の中見ても楽しくないじゃん。だから外眺めてんの」

「や、手伝えし」

 夏休み間近の七月末。九月の文化祭に向けて、すでに準備を始めるクラスや団体も少なくない。真琴のクラスも、大正浪漫喫茶というありきたりな出し物の準備を始めていた。

「今何してんの。おれ手伝える?」

「武田が費用調べてるから、それ手伝えば」

 真琴は、そう言われて武田のほうを見た。日焼けした野球少年が、たどたどしい手付きで、スマートフォンの電卓アプリをいじっている。周りに二、三人集まっているが、特に何をしているというわけでもない。

 真琴も笹本も武田も、そのほか数人も、クラスの文化祭係として放課後の居残りをしている。ただ真琴には、どうにもこの人数を持て余しているように感じるのだった。

「武田ぁ」

 武田に呼びかける。武田はスマートフォンから顔をあげ、真琴を見た。

「なーに」

「おれ手伝えることある?」

「んー……ねえなー」

 だろうなあ。真琴は苦笑する。

 費用の計算くらい、ひとりふたりで済むだろう。空の色に見惚れている暇があるのだから。

「笹本。やることないって。帰っちゃ駄目なわけ」

 真琴はそのへんの机に腰をかけ、笹本に尋ねた。同じような格好でスマートフォンをいじっていた笹本が、露骨に不機嫌そうな顔をした。

「やることなくてもさー、彼女と同じ空間にいることを喜びなよ。わたしが吐いた二酸化炭素を吸えよ」

「二酸化炭素は吸えないわ。ごめんな、何もできない彼氏で」

「ほんとにね」

 笹本が唇を曲げて笑ったとき、真琴のポケットから電話の着信音が鳴った。真琴は、スマートフォンを取り出し、画面を確認した。『のぞみちゃん』という文字と、赤と緑の電話マーク。

「ちょっと出るわ」

 笹本に断って、真琴は緑の電話マーク、通話ボタンをタップした。

「もしもし」

 呼びかけると、ゆったりとした声が返事をした。

『あ、真琴くん。久しぶりー』

 スマートフォンのスピーカーモードがオンになっていた。まだ幼さの残る少女の声に、笹本はさっきよりも機嫌の悪い顔になった。ほかのクラスメートたちも、漏れ出る音声に苦笑を浮かべている。

 スピーカーモードの切り替えの仕方が分からず、真琴はそのまま通話を続けた。

「久しぶり。何?どうしたの」

『今から、陽の散歩行こうと思ってんの。真琴くんもどうかなって思ったから、電話した』

 真琴は、目を丸くする。陽が外を散歩するということを、初めて知った。狼が普通の通りを歩くとは、大丈夫なのだろうか。

『忙しい?何かしてる?今』

「や、忙しくはないよ。今学校いるんだけど、そっち着くまで待ってもらえる?おれも散歩行きたい」

 言いながら、真琴は笹本を盗み見た。笹本は、スマートフォンを眺めている。唇を尖らせて。

『分かった。なるべく早く来てよ。陽の膀胱が破裂したら、真琴くんのせいだよ』

 犬と同様、散歩はトイレを兼ねているらしい。まさか縄張り争いのマーキング目的ではないだろうが。

「オッケー。じゃあ、また後で」

 スマートフォンを耳から離し、通話終了のボタンを押す───前に、のぞみのほうから通話を切られた。

「帰んの?」

 スマートフォンから目を逸らさず、笹本が訊いてきた。真琴はうなずく。笹本にというよりも、係のメンバー全員に言った。

「うん。ごめん、先あがらせて」

 武田含む電卓組は、んー、だとか、あー、だとか、返事になっていない返事をした。おそらく、イエスという意味だ。

 しかし、笹本はイエスとは言わなかった。

「女の子じゃん」

 相変わらず真琴のほうを見ずに、笹本が言う。真琴は首を傾げた。

「何が」

「電話してた相手───女の子じゃん」

 笹本の声は、徐々に小さくなっていった。心なしか、語尾が震えていた気がする。電卓組が一斉にふたりのほうを向いた。

 真琴は、おやと思って笹本を見つめた。うつむいてスマートフォンをいじっているので、目元が見えない。だけれど大きめの唇を尖らせているのは分かった。

「修羅場?」

 武田が、恐る恐る茶化した。怯えるなら首を突っ込むなよ、と真琴は苦笑する。

「友達の妹だよ。中学生。その家の人みんなと仲良いの」

「……へえ」

 笹本は軽くうなずく。それだけだった。

 帰りの電車の発着時刻に向けて、そろそろ学校を出なくてはいけない。真琴は、自分のリュックサックを引っ掴んだ。

「変な誤解させてごめん。あと、おれだけ先に抜けるのも、ごめん。じゃあまた明日」

 また、電卓組だけが返事をする。真琴は教室を出る。傷つけた笹本のことは考えないことにする。

 帰りの電車で、スマートフォンに届いた笹本からのメッセージを見た。

 ───水野くんの優先順位の中で、わたしたちってどこらへんの位置なのかな。


 

 神崎家の前に、小柄な少女と赤い首輪をつけた動物が佇んでいた。のぞみと陽だ。なるほど、首輪とリード紐があれば、いたって普通の大型犬に見える。

「お待たせー」

 真琴は、近づきながら呼びかけた。手をふる。のぞみも手をふりかえした。

「遅いよ。陽が漏らす寸前だって」

「そんなこと言ってないし!」

 陽が慌てて叫ぶ。のぞみは、唇の前に人差し指を当てて、それを制した。

「ちょっと。犬が人の言葉喋んないで」

 陽は、不満そうに顎を引き、「わん」と一声吠えた。さすが狼、凛々しい声だ。

 真琴は、二人に近づき、腰に手を当てて笑った。

「かっこいいわんちゃんだな」

 不満げに口を曲げる陽がおかしくて、真琴はまた笑う。のぞみが、握っていたリード紐を真琴に差し出した。

「真琴くんが持つ?」

「そうだね。……陽、嫌じゃない?」

 真琴としては、狼の姿とはいえ、友達の首に紐を括って引っ張るのはどうかと思った。しかし、陽は機嫌を直した顔でうなずいた。

「陽、狼になってから、人間としてのプライドは極力捨てるようにしてるんだって」

 のぞみが言う。

「じゃないと死んじゃいそうだから、ってさ」

 暑い夏の空気の中、刹那に細い風が吹く。ふさふさの灰色の毛が乱れ、陽は煩わしそうに目を細めた。


 

 神崎家からしばらく歩いた先に、公園がある。公園で軽く運動してから、同じ道を通って帰ると言うのが、いつもの散歩コースだそうだ。

「違う景色が見たいってときは、コース変えるんだけどね」

 のぞみがそう言ったきり、三人は、無言で歩いた。互いをよく知っているためか、沈黙も気まずくない。

 真琴は、すでに夕日が沈んだ空を眺める。夕焼けの名残が、山の端をちらちらと飾っている。

 もう文化祭の集まりは終わっただろうか。笹本や武田たちは帰っただろうか。

 そう考えていると、笹本からのメッセージに返事をしていないことに気づいた。しかし、真琴は焦ったりできなかった。

 水野くんの優先順位の中で、わたしたちってどこらへんの位置なのかな。───その問いに答えるとすれば、真琴にとって笹本たちは優先順位の中に存在していない。

 真琴には、家族がいて、親戚がいて、陽がいる。完結してしまった人物相関図は、なにか書き加える余白がない。

 少しずつ暗くなってゆく散歩道を歩く。真琴が握るリード紐の先には友達がいる。その友達の妹も、一緒に歩いている。

 それだけで満足している真琴は、どこへも進めない。この先、誰とも生きられない。それは、真琴自身よく分かっていた。

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