山に月、君は太陽

秋野いも

第1話

 ある夜、夢で言われた。

「お前は狼になる」

 言ったのは、知らない男の人だった。

 目の下の隈とこけた頬、顎にある傷跡が印象に残っている。ひどくやつれていて、発する声にも疲れが滲んでいた。

「お前は鈍いから。何も知らないし、何も気付けない。───これは、おれからの忠告だ」

 淡白な夢だった。ただ、その人が話すだけ。それを俺が聞くだけ。彼の他には誰もいない。何もない。

 その無愛想な夢の終わりに、彼はもう一度言った。

「お前は、狼になる」


 

 インターホンを鳴らす。

 神崎家のインターホンは、『大きな古時計』のメロディのオルゴール音が鳴る。小学生の頃、遊びに来て、このメロディを聴きながら、陽がドアを開けるのを待っていた。その名残だろう。このメロディを耳にすると、真琴の胸は無条件に高鳴る。

『はあい。あ、真琴くん』

 インターホンのスピーカーから、陽の家のおばさんの声が流れた。真琴の名前を呼ぶ声の柔らかさは、昔から少しも変わらない。

『鍵開いてると思うからさ、気にせず入っちゃって』

「はい」

 彼女の気楽な声に従って、真琴はドアの取っ手に手をかける。ドアはすんなり開き、よその家特有の不思議でいい匂いが真琴の鼻をかすめた。

「お邪魔します」

 真琴はひと声かけて、家にあがらせてもらった。

 神崎家の玄関には、いつもたくさん靴があった。過去形になる。四人家族のはずなのに、八足も九足も靴が出ていた。

 そんな活気のある感じが、真琴は大好きだったのだけれど、今は三足しかここの家の靴が出ていない。

 靴を揃えて立ち上がると、おばさんが玄関にやってきた。おばさんは、ひまわりみたいな笑顔を真琴に向けた。

「真琴くんいらっしゃい。暑かったでしょ」

 おばさんの笑顔と陽の笑顔はそっくりだ、と真琴は思う。笑顔も遺伝するんだ、と。

「お邪魔してます」

「うんうん。いつもありがとね」

「学校帰りに寄らせてもらってるだけなので」

 放課後、家へ帰る前に陽のうちを訪れる。それが、この一ヶ月で習慣となっていた。おばさんもおじさんも、陽の妹ののぞみも歓迎してくれた。

「今日はなんかあった?」

 おばさんは、真琴が陽の部屋へ行くまでの、ほんの短い道のりでの会話を愉しんでくれる。真琴は、彼女に対し、他愛もない日常を話す。

 階段の根本で、「それじゃあまた」と、おばさんは踵を返して行った。居間の方へ消える。

 陽の部屋は二階にある。真琴は階段をのぼり、廊下を少し歩いた。廊下の先の、木製のドアが、陽の部屋だ。

 ドアの前で、立ち止まる。

 昔は、いや、ついこの間までは、ためらうことなくドアノブを回し、ドアを開けられた。

 それなのに今は、指先にほんの少しの不安がくすぶっている。

「陽」

 真琴は、ドアの向こうに呼びかけた。どうか、今日も昨日と同じように、言葉を交わせる陽でありますように。そう祈りながら。

「あ、いいよー」

 陽のおばさんのそれとよく似た、気楽な声が返事をした。

 真琴はほっとして、安堵のため息をついた。指先の不安が消えた。

 ドアを開いて真琴の目に入るのは、慣れ親しんだ陽の部屋。家具の配置も、壁の賞状も、小学生の頃から変わっていない。

 何の変化もない、普通の部屋。

「やっほー、真琴」

 何の変化もない、普通の部屋で、のんびりとくつろぐ陽だけが、違う。

 昔と違う。

 見た目が、声が、匂いが違う。

 真琴の記憶と違う。

 真琴の記憶のなかでは、たしかに陽は人間だった。

 だけれど、今ここにいる陽は、違う。

 今、真琴が見ている陽は、狼の姿をしていた。


 

 神崎陽。彼は、真琴の小学生の頃からの友達だ。

 昔から、底抜けに明るくて、丈夫で、まっすぐな少年だった。ひまわりのよう、と例えるほかない。

 真琴の記憶にある陽の顔は、笑顔ばかりだった。

 その思い出す笑顔は、人間のものだ。

 真琴は毎日思い出す。忘れないよう、思い出す。

 陽は目が大きかった。大きな目に光をいっぱい受けて、きらきら輝かせていた。口も大きかった。よく食べ、よく喋る口。目も口も大きかったけれど、鼻は控えめだった。正面から見たその顔が、真琴には、ニコちゃんマークみたいだと思えた。

 陽のニコちゃんマークみたいな顔が、真琴はなにげに好きだった。見られなくなってから気づいた。

 今の陽は、ずいぶん凛々しい顔になった。

 灰色の目。すっと通った鼻筋。───骨格から変わってしまっている。

 灰色の毛皮をまとった大きな身体は、どこからどう見ても狼。

 そんな狼が、普通の部屋に寝転がっている。

「今日めっちゃ暑いね。学校大変だったでしょ」

 陽が、床を転げながら、目だけ真琴のほうを向いて言った。

「三十六度。屋外の体育が中止になったよ」

「へえ。中止とかあるんだ」

 陽が相槌を打ちつつ体勢を変える。真琴は、神崎のそばに腰をおろした。「伏せ」の格好になった陽は、真琴の顔をじっと見つめた。

 狼と向かい合わせ。互いの間に、食う食われるの緊張感はない。

 陽が狼に変貌して一ヶ月、真琴はその姿すら見慣れてしまった。一ヶ月間、ずっと顔を合わせているのだから、慣れるのも当然かもしれない。

 ある日いきなり狼になった陽は、当然、学校へ通うことができなくなった。真琴は友達のよしみということで、毎日彼のもとを訪れている。外からの刺激がないとつまらない、と、陽のほうから頼んできたのだ。

 別々の高校へ進み、しばらく疎遠になっていた自分を頼ってくれたのが嬉しかった。

 そして、今に至る。

「真琴、ねえ」

「何」

「何か面白い話ない?」

 狼になっても、陽は陽だった。気楽でのびのびしている。生活が変わっても、ふさぎ込んだりはしなかった。

 そんな陽に救われているのは、友達が狼になって戸惑っていた真琴のほうだ。

「面白い話、あるかな」

 呟きながら真琴は、床に放られた犬のおもちゃに手を伸ばした。

「今日見た夢はちょっとだけ面白かったかも」

「夢?」

 灰色の目を丸くして、陽は尋ねた。真琴はうなずいた。

「そう、夢の話。陽の夢見たんだ」

 陽の灰色の尻尾を眺めながら、真琴は話す。

「夢の中だと、まだ陽は人間だった。まだ人間で、おれの部屋でカップラーメン食べてた。そのカップラーメンが変で……春のラクダ味って書いてあって。どんな味か訊いたわけ。そしたら陽が、『キャラメルの味する!』って元気よく答えて、そこで目が覚めた」

 目覚めたとき、たとえ夢でも、人間の姿の陽に会えたことに少し泣いたことは、秘密だ。

「ラクダはキャメルだしな。キャメルはキャラメル味なんだって。言葉遊び」

「あはは、自分の夢の分析までしちゃうんだ」

 陽は噛みしめるように笑った。自分の前足上に顎を載せ、真琴を見上げて言う。

「春のラクダはキャラメル味で、じゃあ夏のは何味だろ」

 二人とも、くだらない話が好きだった。

 真琴はとあるロックバンドが好きだ。陽はスペインのプロサッカー選手が好きだ。だけれど、お互い顔を合わせると、それらのことなど忘れてしまう。ただ、今喋りたいことだけを、脈略もオチもなくても話す。二人とも、そんな会話が好きだった。

「塩キャラメル味とか」

「あー、夏って塩味いっぱい出てくるよね」

「秋は?」

「まつたけキャラメル味」

「もっとほかにあるだろー」

 二人の会話はいつも、気づかないうちにとんでもない方向に話題が逸れていく。しかし、今日は違った。陽が、キャラメルの話を打ち切った。

「おれ最近、夢見ないんだよね。最後に見たのが一ヶ月くらい前で」

 陽にしては急な切り替えだった。真琴は少し引っかかった。が、すぐに気がついた。

「喋りたいことがあるわけだ」

「あ、バレた」

 陽は真琴を見つめ、笑った。狼になっても、表情がよく分かる。人間だった頃の、豊かだった表情のおかげだろうか。

 陽は、たくさんの笑い方を知っていた。楽しくて笑う、嬉しくて笑う、───たくさんの種類の笑顔を持っていた。だけれどきっと、人を傷つける笑い方は知らないのだろう。真琴は、そんな陽を眩しく思い、同時に憂いてもいた。

「最後に見たのが変な夢だったって、真琴の話で思い出したんだ」

 陽は、笑顔のまま話し始める。

「知らないおじさんが出てくる夢でさ、俺に言うの。お前は狼になる、って。ただそれだけの夢。そしたらその夢見た何日かあとに、ほんとに狼になってさ。すごいよねえ、これって予知夢かな?」

 やや興奮気味に話す陽の声は、真琴の聞き慣れたものだった。

 いつも陽は大げさだから、その声は真琴にとってどうというものでもない。しかし今回の話は、はいはいそうですか、と済ませられるものではなかった。

 陽が嘘を吐いていないのなら、それは間違いなく予知夢───いや、それよりもずっと奇妙なものだ。

「作り話じゃないよな」

 真琴が問いかけると、陽は笑った。

「信じられないの?友達が狼になってんのに?」


 

 あ、またこの人の夢だ。

 狼になるぞと宣告されてから一ヶ月、久しぶりに夢を見た。

「狼に、なっただろう」

 あいも変わらずにぶっきらぼうに、男の人は言った。

「狼になったのに、まだお前は分からないんだな」

 男の人の言っている意味が分からない。───説明が、少なすぎるんだ。

「あの」

 この人の夢で、おれは初めて行動した。目の前のぶっきらぼうな顔を見つめて、話しかけたのだ。

「あの、あなた誰ですか」

 自分の発した声の質で気づいた。おれは、人間の姿をしていた。

 男の人は、ゆっくりと瞬きをした。こちらを見据える目つきが、少しだけやわらかくなった気がした。疲れた様子なのは変わらないけれど、どこか親しみが滲んだ顔になった、気が、しないでもない。

「誰かなんて、知ったところでどうにもならないよ。───でも、ひとつ教えようか」

 男の人は、目を伏せた。

 空気の中に、灰のようなものが混じりだす。それは白いもやになって、おれの視界の邪魔を始めた。

 夢の終わりだ、と悟った。もやにさらわれて、現実に引き戻される時間がやってくるんだ、と。

 もやが濃くなる。男の人の姿が、白の奥に消えていく。

 やがて声だけが聞こえるような状態になった。

 彼は夢の最後に、言った。

「おれもお前と同じ、何も気付けない馬鹿な男だよ。お前は狼になって、おれは虎になった」

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