失ってはまた探してばかりのAIの行方
エメラルドグリーンに塗られた壁を背景に、近い色のトレーナーを着た男は存在感を薄めている。ソファは壁より少し濃い緑で、三者が絶妙なグラデーションを成していた。
定時前の休憩室は閑散としていた。最後の追い込みをかける時間帯だ。のんびり休もうという人は多くない。壁沿いの長いソファに座るのは男ひとりで、対面に十以上並ぶプラスチック製の白い椅子には誰も座っていなかった。
冷蔵庫のうなる低い音と、自動販売機の音が響いていた。食事の残り香だろうか、エスニックなにおいがどこから漂っている。確かに少し前まで誰かがここにいたのだろうと思った。
男はコーヒーマシンでココアをいれた。温かい紙コップを持って席に戻ると、私物のノートパソコンの画面に視線を落とした。
『ChatGPT:タイトル: "紛失のメロディ" 主人公はある日突然、自分の頭から特定のメロディが消えてしまったことに気づく。メロディは主人公にとって非常に重要であり、彼/彼女の人生に深い意味を持っていた。主人公はメロディを取り戻すために様々な努力をするが、どの方法もうまくいかない。ある日、主人公は偶然にもそのメロディを再び聞くことができる瞬間に出くわす。しかし、その短い瞬間でも主人公はメロディを完全に取り戻すことはできない。最終的に、主人公はメロディの喪失と向き合い、新たな人生の道を見つけることになる。メロディの紛失を通じて、主人公は失ったものへの悲しみと向き合いつつ、新たな可能性と希望を見出す』
AIに依頼して吐き出されるプロットは、喪失と再生の物語ばかりだった。古代から人間はなに一つ進歩せず、同じ場所で燻っている。一足跳びで人間を追い越してしまったAIが、進歩のない人間を嘲笑っているかのようだった。
いくらか正鵠を射ている、と男は思う。人は生まれたその瞬間から誰もがどこか欠けていて、穴を埋めるために長い人生を費やしていく。人間が作ったものに、人間の力が及ばなくなる。過去にもあったが、言語は人間が人間たる所以ともいうべき、根本の問題だ。ラッダイト運動などとは次元が違う、埋めがたい大きな空白が生じた。
男は言葉の羅列を目で追った。プロットに沿って文章を書いてみようかと思うものの、なにも言葉が浮かばない。
——薄い。
AIは背景を持たない。大量の言語データを収集、分割、再構成してモデル化する。人間のようなインディヴィジュアルなコンテキストを持たない。古い和歌には「読み人知らず」の作品が無数にある。同様に、AIが吐き出す文章は名の権威性を排除した純粋な文章だった。言葉の価値を貶めるどころか、純然たる言葉の価値を形作っているのは、AIだけだ。インディヴィジュアルは表面上の差異に過ぎず、人間もAIもモデルは似たようなものなのかもしれない。
だとしたら、物語ははなから薄かったのだ。権威はいずれ、人気としての数字にすげ替えられてしまう。コンテキストはただ、宙に霧散する。接続を絶たれた雨粒のようなイメージが、秩序にしたがって流れるだけだとしたら、それはそのまま自然そのものだった。
「Kさん、おつかれさまー」
男の思考を遮るように朗らかな声が休憩室に轟いた。
「ああ、お疲れ様です」
発音に癖があった。コーヒーを淹れに来た同期だった。明るく、分け隔てなく笑みを振り撒く女には、知り合いも多い。接続を絶ったはずの小さな世界に外部との細い線が伸びるのを感じ、苦しかった呼吸が楽になった。
魅力的な人。純粋なコスモポリタン。境界のない人。他人の呼吸をおつかれさまの一言で軽くしてしまう。たやすく皆に笑みをもたらす不思議な人。それが男にとっての女の印象だった。
「なに、勉強ですか?」
「うーん。まあそうかな」
淹れたばかりのコーヒーを、男の斜め前の席に置いた。
「あたしも勉強したいんですけどねえ。本とか読みたい」
「へえ、どんな勉強したいんですか?」
セミロングの髪をかきあげ、コーヒーを啜った。苦い顔を一瞬だけ見せ、子供っぽく微笑んだ。
「んーとね。まだ決めてない。Kさんはなに勉強してるの?」
「なんだろ、説明するのが難しいな。言葉、ですかね」
男は言葉を濁した。素直に小説を書いているとは言えなかった。
「ふーん、英語ですか?」
女はまったく無邪気にふところに踏み込んでくる。男はやや躊躇いながらも、慎重に言葉を選ぶ。
「いや、いろんな言葉かな。AIと会話とかしたりしてます。……あとは、小説とか」
「小説の勉強?」
「うんそう、小説の勉強です」
女は、うんうん、とわかったようなわからないような、曖昧な表情のまま繰り返し頷いた。肘をテーブルにつき、体重をあずけるように前屈みになった。
斜向かいの女が急に近く感じられた。男は手を止め、女を見た。
セミロングの髪がテーブルに触れるくらいに頭を低くし、下から覗くように男を瞳をじっと見据えた。
冷蔵庫と自動販売機の唸る音が聞こえた。
「つまり、Kさんは小説を書くってこと?」
単刀直入だった。
男は思わず手を止めた。腕を持ち上げ、かゆくもないこめかみをぼりぼりと掻いた。再び冷蔵庫と自動販売機の唸る音が聞こえた。女がからだを起こした。二人の視線が一瞬だけ重なったが、男はパソコンに視線を落とし、ディスプレイに並ぶ文字列を確認する。それは、AIから吐き出された文章ではなく、自分の指が綴った文章だった。
「うん。小説を書きます」
少し驚いたように目を一瞬だけ見開いてから、女はゆっくりと立ち上がった。顔には微笑が浮かんでいた。
「そっか。Kさん、えらいね。じゃ、またね」
「はい、お疲れ様です」
女はコーヒーを持って休憩室を後にした。冷蔵庫と自動販売機の唸る音の底から、じわじわ言葉が染み出していく。その言葉をひとつひとつつかまえていく。男は、小説を書いていた。
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