白い服の女

 何も載っていない台車をどこからか運び出しては、押している。蛾が街灯の光に集まり、繰り返しぶつかってひたすらに命を消耗している音の下で押している。真っ白のワイシャツに黒のスラックス。どこのオフィスにでもいる事務職といった装いで、髪は後ろで低く縛り、眼鏡をかけている。白いマスクをつけているため、顔も表情もわからない。年齢もはっきりしない。交番前で女とすれ違うことが多かった。街頭と建物から漏れる淡い光のなか、黒い髪は艶やかに見えるが、実際のところは曖昧だ。

 交番すぐ脇には生垣とベンチがある。夜、そこに座って缶酎ハイを飲みながら、スペイン語で誰かと電話をしている男がいる。彼は空き缶をそのまま置いていく。夏になると虫が湧く。男の置いていく空き缶が原因か、生垣のせいか、飲食店が多いせいかわからない。その周辺では見たくもない光景を頻繁に目にする。女とすれ違った晩には、虫を見ることはない。虫を見た夜には、女とすれ違うことがない。偶然だろうと思う。平坦な日常にあるあまりにありふれた平凡な出来事だった。

 女はそのまま交番の前の通りを横切って、駅に続く道をまっすぐに行く。さらに駅に近い場所で見たこともあった。わざわざ後をつけてみる気にはならないため、結局はどこへ行き着くのかは知れないままだった。線路に沿って坂道があり、くだると駅の改札と、乗り換えの連絡通路がある。その坂道にはこの時期、綺麗な躑躅の花が咲く。紅白二色。時期が微妙に異なるため、今は紅の一色しか咲いていない。白が枯れる頃にはたいてい花粉の季節が終わっている。使ったあとのティッシュが、青々と茂った葉の上に捨てられているかのようだった。用がすんで、必要がなくなった花は散るだけだ。似たようなものだと思った。

 女が空の台車を押しているのは、なにかをどこからか運ぶためなのか、運んだ後に片付けに行くと考えたほうが自然だろう。空の台車を押す姿しか見たことがない、というのは、すれ違う方向ではなにかを運ぶ必要がないことを意味している。だが、まったく不都合なことに、シーシュポスを女に重ねて見ていた。空の台車を永遠に押して歩く女は、罪を犯し、神に罰せられているのだ。

 いかにも地味で真面目そうなあの女が、どのような罪を犯したというのだろうか。

 シーシュポスは神々を欺いた罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げることを命じられた。しかし、岩が山頂に近づくときに底まで転がり落ち、この苦行が永遠に繰り返されるという。

 告げ口をして、死を拒み、嘘で奈落を逃れ、生きようと欲した。生きようと最期の最期まであがいたことが、彼が、彼女が、罰せられる理由なのだろうか。だとしたら、神々は随分と理不尽なものと思う。考えてみれば、人は生まれつきシーシュポスのように罰せられているのだから、なにを今更、という気もしないでもない。本当にそれが罰になるのだろうか。やはり、よくわからない。


 マンションの階段をのぼる。たわいない思考は上昇とともに薄れていく。部屋の扉を開けたころには、女の子となどすっかり忘れていた。

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