空の道

 小糠雨のなか、傘をさしているのは女だけだった。気後れした。悪いことはなにもしていないのに、自分だけが濡れるのを嫌う愚か者のような気がした。そんなはずはない。躑躅の紅のうえに丸いしずくがころころと並び、柘榴石のような甘酸っぱい光を漏らしていた。

 あれ、なるほど。濡れるのも悪いことではないかもしれない。

 傘を閉じた。

 駅から家までの歩みをかぞえる。一歩、二歩、三歩、四歩、と数が増えていくことに心は穏やかになる。日曜日の朝の平静な空気に水をさすように、怒鳴り声をあげる中年の男と、なだめる警察官がいた。イヤホンの音量をあげて、自らの歩みだけに集中する。

 十歩、十一、十二、十三、十四、十五。

 コンビニの前で五十歩になった。雨に濡れた髪からシャンプーと排気ガスの混ざったようなにおいがした。電車と同じにおい。近くに人はいなくなった。この短い間に雨足は強くなって、濡れたブラウスが肌にはりついていた。寒い。横断歩道の前で車が止まる。小さく頭を下げてから、少し駆け足で渡った。いつのまにか歩数を忘れた。また一からだと思うと数える気にはなれなかった。

 いつからだろう、長い間まともに人と話していない。仕事をしていても、完全に自己完結してしまうし、仕事以外での人との接触は、せいぜいコンビニかスーパーくらいのものだ。友人はいない。人と話すのは苦手だった。趣味といえるほどのものもない。静かに安全に、暮らせればそれで満足。安らぎさえあれば良い。ずっと、そう思っていたのに。

 オートロックを解除する。自動ドアが開く。ちょうどエレベーターが到着したところで、人とすれ違う。知らない人だが、会釈する。向こうも会釈する。

 コロナの感染拡大によって、静かな人たちがより静かに、声の大きな人たちがより声が大きくなっていった。そうして、大切な言葉とそうでない言葉の区別がつかなくなった。静かな人の、時々かたる言葉は小糠雨のように弱く、服にすっと吸われて消えてしまう。ただ激しさだけが意味だった。人を不快にしたり、苦痛を与えたりするものだとしたって。躑躅を濡らして輝かす類の言葉は、この世界にはもういらないのかもしれない。

 エレベーターが開き、空に近いより細かな雨が吹き込んできた。雲のなかにいるみたいだった。廊下へ出た。強い風が吹くと、雨は重力にあらがうように舞い上がって、艶やかな色で誘う。虹が透明な光をばらばらに散らすように、この小糠雨だって、おくゆかしい色を孕んでいるはずだ。柵の向こう側に、廊下の延長線のように白い光の道が続いているように見えた。綺麗だ。雲の多い日に時々見る、日が空からさす光景に似ている。それをちょうど水平に伸ばせばきっと、道になるのだろう。


 ——はて、その道はどこに続いているのだろう。


 柵から身を乗り出して、下を覗き込んでみた。さらに雨足は強くなったようで、道を歩く人は皆、一様に傘をさしていた。花が開いたみたいだ。香りが立って、色になって、女のいる場所まで浮き立ってくる。あまいあめのにおい。花が散る間際は、女の紅潮した頬に似て、凄艶な生命力に満ちていた。そして、落ちてもなおしばらくかおるのだ。

 雨に濡れた傘がゆさゆさ揺れながら道を流れていった。通り沿いの生垣の緑とのコントラストを演出するかのような紅色の傘が二つ、三つ、過ぎていく。雨の季節にだけ咲く人工的な花は、高い場所からしか見ることができない。真上から見たい。もっと高い場所から見たい。そう思ったのに、柵の向こう白い道は、いつのまにか蒸発して消えてしまった。

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