偽りの星の下で死を眠る

 鳥の声に置き去りにされるうちに夏になった。去年との違いは、コロナの終息によって街に人の姿が圧倒的に増えたことと、そのうちでもマスクなしで歩く人が多くなったことだ。

 顔が見える。顔が見られる。些細な変化のはずだった。表情が読み取られるかもしれないことがこんなに怖いことだと、すっかり忘れていた。

 電車を降り、階段をのぼる。地上には出ずに地下街を抜けて、そのまま直通のビルへ入る。エレベーターで連絡通路のある階までのぼる。建物に沿って伸びる長い坂をのぼる必要がなくなるから。朝、長い坂には昨夜の吐瀉物と酎ハイやビール、エナジードリンクの空き缶、ゴミを啄むカラスやハト、さらにはアスファルトに横たわる若者と、歩くのを躊躇われる。一方、ビルの中を通っていけば、目にする大半は自分と同様にマスクをして歩く会社員の群れくらいで、見ないで済むし、見られないで済む、と思った。

 見つからないように、と願いながら歩き続ける。人に見られたところで何も不都合などないはずなのに、面と向かって人と話すのが怖いのだ。

 三年以上言葉だけの世界に生きてきた。リモートワークで直接人と話す必要がなくなり、イベントはことごとく中止、地元にも帰ってくるなと言われ、友達だと思っていた人たちとも疎遠になった。空虚。生きている意味などないのかもしれない。違う、ずっと前から生きる意味などなかったのだ。人の中に紛れているうちは、その事実に気づかずに済んだという、それだけの話。


「あの、落としましたよ」


 髪の白い、見るからに若い男だった。


「いやそれ、私のじゃありませんよ」


 男の見せたピンクのハンドタオルに見覚えはなかった。多くの人が行き交う中で誰かがなにかを落としたところで、気にかけたりはしないし、気づくかすら怪しい。ナンパ、だとしたら、朝はどうやったところで捕まらないだろうと、なぜか不用意にもその若い男に憐憫を抱いた。

 だからだろう。運ぶ足の速度が確かに、瞬間的に緩まった。隣を、スーツ姿の男が抜き去る。ふわっと香水の匂いがした。


「あれ、そうでしたか。確かにあなたのバッグから落ちたと思ったのですけど」


 若い男は隣に並んで歩く。黒いマスクの上に並ぶ、くっきりとした二重瞼の眼は印象的だった。綺麗に引かれた眉に、長いまつ毛。どうやら化粧をしているらしい。見た目には特別気を遣っていることがわかる。


「朝だと、なかなか捕まらないじゃないですかね。みんなこれから仕事だっていうのに、ナンパにかまっている暇はないですから」

「でも、お姉さんはこうして話しているでしょう」


 ビルを出た。板状の鏡が木の葉のようにばらばらに宙を覆っている。その鏡の一枚いちまいに、自分と若い男の姿が映る。見る角度や場所によって映り方が変化し、マスクとは無関係に、多くの表情を見せる。


「そうね。でも、もうオフィスに着くから。そこの交番まで、一緒にいく?」

「交番ってなにも悪いことはまだしてないですよ」

「まだって……」


 もったりとした人混みを泳ぐように歩く。重たい。オフィスが近いのに、どうせ出社しても人と話すことはない。コロナの流行している間に、会話をしなくても仕事が成立するような方法を誰もが見つけてしまった。あるいは、今まで行ってきた仕事の大部分が単なるブルシットジョブだと知ってしまった。案外、ウイルスのジーンによる脅威よりも、ジーンがもたらしたミームの変容のほうがよっぽど脅威なのかもしれない。人は、ミームによって伝播するウイルスにおかされはじめている。


「だからさ、このままどこかに行きましょうよ。どこか遠くに、ここではない場所に」

「……ここではない場所?」


 袖が濡れていた。雨が降り始めていた。花が咲くように傘がつぎつぎと開いていく。雨なのに、綺麗だと思った。海が遠い。なんねんも行っていない。年中雪が降る街で生まれた。冬になると高い波が激しく崖を削って、人間など簡単に飲み込んでしまう。そんな場所に生まれた。あの場所はいつのまにかではなくなった。


「海、連れてってよ。海に連れて行ってくれるなら、いいよ」

「海って、どこ? 江ノ島とかでいいの?」

「ううん、だめ。日本海。思いっきり荒れた海が見たいの」


 マスク越しに、若い男の笑顔が歪むのがわかった。わかっている。ここではない場所なんて、もうどこにもない。


「さすがに遠いな。セックス一回のために日本海は高くつく」

「そうね。どうせそこに辿り着いたって、そこがになるだけだからね」


 子供の泣く声が聞こえた。ベビーカーを押す母の姿があった。彼女はスマホを見ながら坂をくだっていた。残酷な妄想から解放された日に、現実を求めて屋上に忍び込んだのだった。酒の力を借りれば飛べると思った。夏のアルコールは胃に染み渡った。美味しいと一度だって思ったことのない酒が、死の近くでは、こんなに澄み渡っているのだと感動した。酒の臭いにひきよせられたのか、ゴキブリが二匹、空になったばかりの缶に近付いていた。「ひゃっ」と声をあげた瞬間に酔いが覚めて、なにもかもがくだらなく感じられた。死ぬことすらも。


「ごめんね、別の人さがすわー」

「うん、こっちこそごめんね」


 若い男は新しいここではない場所を求めて去っていった。

 女はオフィスとは反対の方角へ歩く。二四六の歩道橋を渡って、セルリアンタワーの横を抜ける。細い路地を通って、少し大きな建物が左手にあらわれる。入り口は反対側にある。自動ドアが開く。

 虚構の夜空の星々の戯れを物語る声は眠りを誘う。安らかな眠り。わざわざ死を望まずとも、死はいずれ自ずと訪れる。静かに眠ろう、眠ろう。偽りの星の下で。

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