意味のない言葉の意味

「君」のいない夜が白く明けて、「私」は壊れた何かを探し求めていた。


 東の窓が部屋を熱し、シーツが汗を吸う音を聞きながら眼を覚ます。初夏というにはあまりに暑かったが、真夏と呼ぶにはまだ柔らかい、言葉の隙間に落ちてしまったような季節だった。

 枕元のスマホに手を伸ばす。目覚ましよりはやく起きた。Siriにアラームを切ってもらう。単調だったはずの朝がいつもと少しだけ違って見える。別れると決めた瞬間からすでに失われていたなにかが、ようやく実感をともなって生活に穴をうがち始めたのだ。

 バカだな。という独り言をかき消すためにテレビをつけた。朝のビジネスニュースがデフォルトという言葉を繰り返す。デフォルト。債務不履行。初期設定。なにもしない、なにもできない、なにも起こらない。平坦な日常にうがたれた穴なんて、時間が経てば自然と消えてしまう。その平静こそが、心に巣食う嫌な虫なのだ。哀れな自覚症状が、目の前の視界を歪ませる。

 鏡には、女に毎日のように見せていた偽りの笑顔が映る。手のひらをお椀のかたちにして水をため、ゆっくりと顔を近づけた。気持ちいい。部屋が暑くなっていても、貯水槽の水は夜の冷たさを維持している。濡れた自分の顔を見る。張り付いていた笑顔は流れ落ち、そこには無表情ともいえるような微笑が残った。能面。角度によって表情が変わるのは、誰が見るかによってものじたいが変化するからなのだろう。キュビズム的人格の自覚は、自己同一性を破壊する。一貫性が大事だ、と言い聞かせて作り上げた仮面ですらも、長く秩序を保つことができなかった。限界に達し逆さまになったそれは、地面に落ちて砕けた。重力だけが救いだった。

「春に会いましょう」という言葉を残して母は死んだ。祭りの金魚掬いですくった金魚が、その翌週の日曜に死んだ。春が来ても永遠に母と会うことはなかった。金魚たちとも会うことがなかった。悲しみは、あの時に捨ててしまったのだろう。

 鍋のそばに立つ。卵を茹でる。泡に踊るように揺れている。底から浮かびあがった小さな泡は別の泡と融合して大きくなって、水面で散って消える。一つひとつの動きは細やかではかない。消えてしまう運命に抗おうとする泡が、黒い鍋底にはりついている。小さいまま、誰とも融合しようともせず、孤独の底にはりついている。

 好奇心は記憶の深淵に沈んで消えた。知りたいことは一つだけだった。誰かを愛することができるだろうか、ということ。

 芝公園から、東京タワーを見上げた。真昼の空はうっすら青い。冬の冴えた、透明な空とは違っている。桜が散ってしばらく経っていた。梅の樹には葉がしげって、実もよく見えなくなっていた。仕事まで、まだ時間がある。もとは水がながれていたであろう場所に、大きな石が並んでいる。そのうちの一つに腰掛ける。スズメが虫を追いかけている。追いつき、ついばむ。

 緑が心地いい。薄く強い景色を目の前にしながら、多くの人が小さなディスプレイに夢中になっていた。彼らは、誰かを愛すことができるのだろうか、と思う。

 夏の夜の花火の記憶。ふと手をついた地面に、線香花火の燃え滓が落ちていて火傷した。断片。悲しみの欠けた世界で生きる自分が、愛を知ることなどできるのだろうか。疑問。疑問。疑問。

 落ち葉を踏みながら歩いた。鮮やかな青が落ちていた。日もささないのに、美しく輝いていた。どうせいつか死ぬのだ。どうせ自分も、公園にいる人々も。やがて眠りにつく。ただ空と花と、鳥と蝶と、そうした美しいものだけを見て生きたかった。信じることで、深部へと足を踏み入れることで、結果として裏切られることを恐れていたのだ。愛は、その奥にあるかもしれないというのに。

 小石を蹴った。木にぶつかって、思いのほか軽い音がなった。納得した。これは、自分の運命なのだろう。


 徐々に消えていく星の塵を、壊れやすい瓶に入れて眺めている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る