流れる
崖の縁に立つ女の背中は、死を覚悟したようには見えなかった。海から吹き付ける潮風がかおる。初夏だ、暑い。高い太陽の光ですら、天から降るのが億劫だといわんばかりにゆっくりとそそぎ、時間をかけて皮膚を焼いた。
風雨に削られた岩肌を船虫が這うのが見えた。総毛立つ。無数の脚が波打つように動いている。気持ち悪いと思うのに目が離せない。灰色の背がてらてらと日に輝き、白い岩肌の上を張っている。それがもし女の肌の上であったならば——ふと視線をあげると、縁の女はいなくなっていた。
「どうかなさいましたか?」
銀色の長い髪。別の女だった。五十がらみの女の目尻には、線を引いたようなくっきりとしたしわが引かれ、年相応に老いてはいるが、白い肌は血が通っていないと思えるほどに澄み、美しかった。
「いえ、船虫が」
視線を再び落とすと、船虫はいなくなっていた。視線の移ろいにより、見るものがいつのまにか次々に消えていった。少しでも気を抜くとこぼれ落ちてしまう。意識を集中させていないと、周囲が徐々に崩れてしまう。そうしてぼうとしていると、最期にはなにも残らないのではないか。不安になる。
手を見つめた。無数のしわと静脈がからみあって、文字のような模様を描いている。言葉ではない。指でなぞる。誰かに触られたみたいにくすぐったくて、声をあげて笑い出しそうになった。
「この季節になると増え始めるんですよ。うんと湧き立つのは、まだまだこれからですけれど」
「船虫は、湧き立つのですか」
「ええ、そうです。湯水のように、踏まずに歩くのが難しいほどに」
小学校の校庭を縁取るように、ぐるりと桜が植えられていた。夏の終わりが近づいてくると、学校前の大きな通りに、毛虫がたくさん落ちた。潰れたばかりの毛虫からは、艶々とした白い体液があふれていた。横を、生きた毛虫がからだをくねらせ進んだ。また、毛虫が潰れた。蜜のように粘着質で、生命に溢れた汁が、果実のはじけるような音で吹き出した。そうして繰り返されるうちに、通りは黒く染まった。
毛虫の体内から溢れ出た白い液体がなまなましい光を放つのはほんの一瞬のことで、すべてが最後には黒に落ち着く。靴底の汚れなのか、自転車の車輪の汚れなのか、毛虫の体液が変色するのか。不思議だった。黒くないものでも、時間がそれを黒に変えてしまう。夜と同じことだ。
今では通りが黒く染まることはなくなった。どこもかしこも桜の木には防虫処理が施される。あの大量の毛虫はどこへ消えたのか。あったはずのなにかがなくなり、なかったはずのなにかは、やはりどこにもない。意識からこぼれ落ちてしまった数々の過去は、もうつかまえることはできない。やはり世界からは失われる一方で、ついにはなにも残らなくなるということなのだろう。諦めるよりほかない。
「船虫というのは、潰れたらさぞかし気持ち悪いのでしょうね」
「どうでしょう。どうせ雨が降れば流れてしまいますからね。私は、気にしたことはありませんよ」
日がかげった。大きな入道雲が空を覆い、女の銀色の髪は輝きを失った。肌は白いままだった。袖から覗く細い腕には緑の静脈が透けている。光が弱くなったせいか、色がはっきりと浮かび上がっていた。緑の静脈の隙間を、より細かな紫の網の目が埋める。手首にはピンクのケロイドがあった。微かに膨らんでいるが、肌の他の部分のような肌理がなく、ピンと張り詰め、艶めかしい。赤子の唇のようだった。
「展望台に少し避難した方がいいかもしれませんね。じきに強い雨が降りますから」
「……そうですね。ありがとうございます、そうします。あなたは?」
「私は、もう少し様子を見ようと思います」
展望台の下層階は赤い煉瓦造りになっている。古い建物なのだろうか。近づいて見ると、煉瓦はただ表面を飾っているだけで、主な構造材は鉄骨だった。
中に入り、展望台に続くゆるやかな階段をのぼった。雲がふくらみ、空が小さくなっていく。階段の途中の大きな硝子窓から、海と銀髪の女が見えた。空の暗さとは対照的に、海は凪いでいた。積乱雲が生じている。急激な上昇気流と低気圧が生じ、巻くような激しい風が吹き荒れているはずだった。海にそれを見てとることができなかった。
展望階についた。半円形に海に向かってひらけている。ひさしは手すりの上までは伸びておらず、途中から空が大きくなる。鈍色の重たい雲が海と繋がっていた。空が海を吸い上げている。雨が降り始めているところもありそうだ。
海で生じた竜巻が水を吸い上げ、空から魚を降らすことがある。空を飛ぶ魚の目に、世界はどのように映るのだろうか。海だけではないと知って絶望するのだろうか、どうせ死ぬと諦めつつも末期の眼で美しさを切り取るのだろうか。いかにも、魚を降らしそうな激しい雲だった。
銀髪の女は崖の縁に立っていた。その背中が、はじめに見た女と重なる。——なるほど、同じ女だったのだ。
展望台から望む海も凪いで見える。遠くの海ばかり見ているからだろうか。女は崖の縁に安全のために設けられた手すりに寄りかかるようにして、すぐ下の海を覗いていた。展望台は、かえって海がよく見えないのだ、と思った。雨が頭を打った。ひさしの下に戻る。女が、展望台の床のかげに隠れて見えなくなった。
展望台の屋内にアイスの自動販売機がある。子連れの女が、二つ買った。後ろに並び、待った。チーズケーキ味。チョコチップ。ストロベリーチョコレート。抹茶。ヨーグルト味。並んでみてから食べる気がないと知った。プラスチックの青いベンチに座り、女が上がってくるのを待った。
「間に合いませんでした。結局、ダメだったみたいです。警察には連絡しました」
「また、自殺ですか?」
「そうです。雨が、いけなかったのかもしれません。波が立ち始めています、はやく引き上げてあげなきゃ、すべて流されてしまいますね」
——でも、それを望んでいるのかもしれませんよ。
それこそが、女が期待していた言葉かもしれない。少なくとも、誰もいってはくれなそうな言葉ではあった。
女は背を向け、アイスの自動販売機の前に立ち、振り返った。
「なにか、食べますか?」
「ええ……じゃあ、おまかせします」
「はい」
女はアイスを二つ持って、隣に座った。海には背を向けて。誰もいない展望台で、船虫の死骸を流す雨の音を聞いた。
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