終末のピザ

 躑躅の花が散っていた。昼の五月晴れが嘘のような驟雨だった。公園の池の端に咲いていた花菖蒲も、いくらか散ったかもしれない。夜遅くの帰り道の小さな階段に、ぽつり、ぽつり、色が冴える。その表面で、しずくが艶やかな蜜のように照っていた。

 ゴールデンウィークが終わった。始まる前にはどこか出かけようと意気込んでいたものの、いざ始まってみれば動く気がまるで起こらず、まだ日がある、まだ日がある、と後回しにして、結局はどこにも行かずに終わった。

 久々の仕事だというのに、なにも変わらない。ゴールデンウィークはいつもより少し長い空白だというだけだった。出社し、メールとチャットを確認し、変更事項や共有事項を確認し、業務にあたる。四、五時間あればすべきことの大半は済み、あとの時間は好きに過ごした。それが五日続き、また次の週末が訪れた。

 母の日が近い。明後日だ。

 男に五月病といえるものがあるとしたら、ゴールデンウィークと母の日が原因だろうと思う。小学生の夏休み、母は縊死した。男が母の日にプレゼントした、赤いスカーフで。

 当てつけだ、と男は思った。

 母からの最期の電話を受けたのは男だった。嗚咽する母のうめき声が耳の奥で鳴り続けた。かき消そうと、自転車を漕いだ。母がいる場所のあてなどなかった。よく知った犬とすれ違った。吠えている。いつもだったら撫でてやるのに、目の前を一瞬で過ぎていった。甲高い声が遠ざかった。また母の嗚咽が聞こえた。自転車を漕いだ。漕いで、漕いで、どこにたどりつくのかなどわからなかった。どこか、特定の目的地に向かっているわけではなかった。どこかに行きつけばそれで良かったのに、どこにもたどりつかなかった。助けるつもりなどなかったが、母はあっさり死んだ。二十年以上も昔の記憶は、新緑が色を蓄えるように、日に日に濃さを増し、真夏の蝉時雨のころには、夜より深い緑に沈む。

 夏は嫌いだ。

 男は家につくとすぐにシャワーを浴びた。食事もとらないまま酒を飲んだ。カーテンを引き、夜を閉ざした。暗い中、もう一本の缶を開けた。


 パソコンは起動したままだった。昨夜から実行している言語生成のAIのプログラムは、どうやらまだ動いている。オープンソースのLLMをクラウド上の有料サービスに登録し、ハイスペックのGPUで常時回転させている。そうしてカスタマイズしたモデルを音声認識と音声生成のAPIに連携させ、会話できるようにした。なにも難しいことはない、プラモデルを組み立てるようなものだ。決められたパーツを、決められた場所にあてはめていく。それだけのことだ。

 窓の外の空を、飛行機が飛んだ。その瞬間だけ、パソコンのファンの音がかきけされる。近くの軍の飛行場から飛んできた小型の飛行機が定期的に男の家の上空を旋回し、また飛行場へと戻っていく。訓練にはいくつかパターンがあるらしかったが、男は気にしたことがなかった。今は、音が鳴ってくれたほうがましだと思った。

 パソコンの前の椅子にかけ、本を開いた。『野球経済の黄昏』という図書館で借りた本の文字を目で追った。野球に興味があるわけでも、経済に興味があるわけでもなかった。サッカーなら、母が死ぬまでやっていた。野球に没頭することで、母を遠ざけようとしている。男は自分の愚かな逃避を自覚し、本を読む気が失せた。ピザを頼んだ。ビールもコーラもある。幸い、撮りためたアニメが何本かあった。たくさん録画したなかに、『鍵のない永遠』という漫画原作のアニメがあった。主人公は眼鏡をかけた女子高生で、ある朝、家の扉を開くと、誰もいない世界に転移されていたという物語だった。主人公は間抜けだった。家の扉を出て誰もいない場所に迷い込んでしまったとのだから、すぐにでも戻ればもといた場所に帰れたかもしれないのに。鍵のない世界では、いつだって扉は開くはずだった。永遠に閉じ込められた彼女はいつまでも、今日を繰り返すことになる。

 ピザが届いた。お茶を淹れた。コーラやビールでも良かったが、お茶を飲みながらアニメを見る週末も乙なものだと、気が変わった。鉛筆を手に、ノートを取り出した。見たアニメはすべて記録している。ネットに公開するでもなく、誰に見せるでもないのに、小学校の頃から続けていた習慣が、いくらか洗練された形で、今でも続いているのだった。テレビに映るのは、眼鏡をかけた女子高生ひとり。その世界では、誰もいないはずなのに、電気が生きている。水道やガスも生きているらしい。車も走ることができる。鍵のない世界で、エンジンを起動するのにキーはいらないのだとか。理にかなわぬ設定がいくつも現れては、理不尽なほど女子高生に都合のよい出来事が起こっていく。誰もいないのに。自己完結している世界なのに。だから、ともいえるか、と男は思った。

 連続で六話まで見通すと、アニメが自動的に停止された。前半が終わった。乾かしてあった赤いハンカチを手に取ると、チーズの油でべとべとになった手と口元をぬぐった。

 ワンルームの小さな部屋。家のドアが見える。閉じている。鍵は、きちんとかけられていた。

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