根なし草ながれながれ

「歩き始めたからには、行き着く先が必要だと思う」


 事件現場に集まる野次馬のなかで、ひときわ目立つ服装の女がいた。ピンクのコートに緑の髪、青のワンピースに黄色いミュール。けばけばしい色彩の摩擦から、ひとつ、ふたつ、花びらが散った。鳥の羽がこぼれおち、果実が香った。彼女だけ季節外れの常夏だった。


「そんな靴で歩けるのか?」


 すぐとなりにいた老翁が、小さな声でつぶやいた。そんな呟き、女に聞こえるはずがなかった。少女が落ちたという川の流れは、相変わらず清らかに澄んでいる。もしかすると、少女が落ちたからこそ、これほどまでに澄んでいるのだろうかと女は思った。なんとなく、美が汚穢を打ち消してしまうことなんかがあるんじゃないかという気がする。気のせいかもしれない。


「馬鹿なこと言うもんじゃねえ」


 ——誰に言われたんだっけ?


 あの日もどこかで川が流れていた。時が流れていた。時と川が似ているのは、流れるからではなく、両方とも透明で、冴えているからだろう。そんなもの、本当はどこにもないのかもしれない。関係性でしか語れないそれらには境界線がないのだ。


 ——誰に言われたんだっけ?


 落ちた少女を想像してみて、思い浮かぶのは、退屈そうに河原で石を積む少年。欠けている。欠けていく。老いるというのは、欠落を増していく過程に過ぎない。


 ——あれって誰だったっけ?


 ほつれた糸を切らないまま垂らしていたら、そこから布地は次々とほつれにほつれて、つくろいようがなくなった。

 女は、切り離してしまうのが惜しいと思った。そこに繋がる多くの糸が、女にとっては意味のあることだという気がした。切り離してしまったら、二度とその糸を辿ることができない。

 だから、そのままにしておこうと。


「かわいそうね。まだ、十六歳だってね」


 ——かわいそうなんてこと、あるもんか。かわいそうなんてこと、あるもんか。


 付き合っていた男から聞いたのは、時間は流れではなく、飛び飛びの断面に過ぎないということ。それは一種のアニメーションのようなもので、連続した静止画が滑らかに結びついているからこそ、滑らかに流れるように見えるのだ、と。


 ——その静止画は、どうしてそこだけ切り取れないの? いや、切り取れる。


 美しい光景があるのに、それはいつだって瞬間でしかなくて、その瞬間は次の瞬間にはそこにはない。それを知っている人だけが、生きることに絶望しながらも、生きることに希望を見出してしまう。何度だって出会えるかもしれない可能性に期待して、失うたびに絶望して、また期待して、なんて愚かだろう。


 少女が身を投げたという淵は仄暗く、川縁から斜めに伸びた枝が影を落としていた。一キロ近くも下流で、ようやくそのからだは引き上げられた。その姿はミレーのオフィーリアのように美しかった。水の妖精のように美しく浮き、やがて暗い死の底に引きずり込まれるオフィーリアのように。


 ——瞬間こそが美しいならば、命はそれだけで無条件に美しい。


「で、どこまで行くってんだ、その靴で」


 老翁が、しゃがれた声で言った。


「海かな。ちょっと遠いけど。歩けばいつか着くし、きっと」

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