円、線分、点

 誓いを立てた運河のほとりで、雨戸の閉まる音を聞いた。司法手続きは一通り片付き、携帯電話から連絡先を消せば互いに完全な他人となる。


 ——いや、違うか。


 元々ふたりは他人だった。法の力で短い契約をむすび、しばらくしてほどけた。愛の証明に社会的な承認が必要などとは思わなかった。家族になれば社会生活において有利な点が多い、という合理的な理由によって結婚した。愛情はただそれだけで十分で、契約の有無とは無関係だと思っていた。いざとなってみると、案外なにかが失われるものだと知った。

 男が庭の隅の菜園で育てていた夏野菜は、女が育てるという。きゅうりとなす、トマト。毎年春にホームセンターで苗を買って、男が育てた。習慣になった。長く居られないことはわかっていたのに、また春になって買ってしまった。毎日水をあげた。習慣は円を描き、終わりの予感を男から遠ざけた。逆かもしれない、と男は思う。終わりの予感があったからこそ、習慣に執着した。昨日と今日が変わらないなら、明日も変わらないのだと信じたくて。



 東尋坊に吹き荒ぶ風に男はたじろいだ。白波が絶壁を削るように激しく打ち、日の光に照らされた。不規則な波の音を聞くうち、再び心は落ち着いていく。不惑を過ぎ、惑うことが増えた。興味を持てるものが減り、石や岩のように変化の少ない人生の後半戦が待っているものと思い込んでいた。タコツボに囚われているにもかかわらず、出られるはずの世界から出ようともしない軟体動物のごとく、平穏な日々が永遠だと無邪気に信じていた。世界が逆立ちした。価値はあっさりひっくり返ることを知った。竜巻に飲まれて飛ばされた魚が空から降ることがると聞いたことがある。唐突に空に投げ出されて呼吸もできない彼らは死の間際、その空になにを見るのだろうか。


「どうかされましたか」

「いえ、魚が——」


 還暦近くだろうか、美しい銀色の長髪が風を受けておおきくたなびいた。女は男の一回りは上だろう、目の下に深く沈み込む紫色のくまが余計に女を老けて見せているかもしれない。それでも、五十は超えているはずだ。腹の底からひろいあげたような低く重たい声が、そのことを裏付けている気がした。


「魚?」

「ああ、いえ、なんでもないんです」

「そうですか」


 女は朗らかな笑みを浮かべた。

 こうして声を掛けてまわる活動をしているのだろう、と男は思った。首から下げた札にはNPO法人と書かれている。名前も書かれている。

 相槌を打って離れていくものと思ったが、女は黙って隣に立って、男と同じく波の砕ける絶壁を見つめていた。水。海。命を感じざるを得ないこの場所に来てまで投げ出さなければいけない人生とはなんなのだろうか。


「アタカマ砂漠に行ったことがあるんですよ。一度だけ。砂漠、とはいうものの、ほとんどが乾いた土がひび割れているような場所ばかりで、歩くとそれがバキッと音をたてて砕けるんです。火星って、こんななのかな、とか思ったりして」

「火星ですか?」

「ありますでしょう、谷川俊太郎の詩で」

「ああ」


 女のいうことの一つだって、男は理解できなかった。理解できない。そのことが心を穏やかにさせると考えたことは一度もなかった。不惑の当惑。知らないこと、知らなかったことが、にわかに電球がパッと灯って明るみに出る。その時になってはじめて知らなかったことを知る。まだ、暗い場所がいくらでも残されている。枯葉に埋め尽くされた秋の森の地面のように、その下に遠い春を隠していることもある。時々は地雷を誤って踏んでしまうこともある。当惑で済めば軽い。


「私、あの詩が好きなんですよ。最後にくしゃみで締め括るでしょう。あれがね、なんとも可愛らしくって」

「そうですね」



 太鼓の響きが聞こえる。毎年この季節になると、商店街で夏祭りの催しがあるらしい。カラスがゴムを漁っていても誰も気にかけない汚い通りだ、というくらいにしか考えたことがなかった。引っ越してきて見る新しい町の印象は次々と変化していく。習慣が生まれない。新しい円を描けない。東尋坊を訪れて以来、意味の連続性が途切れてしまった、と男は思う。バラバラも悪くはない。扇風機を一段階だけ強くして、冷蔵庫からトウモロコシを取り出した。ラップに包み、レンジする。太鼓の響きが聞こえる。チンと、お囃子とはまるで噛み合わない音が鳴る。熱いまま根本を右手左手かわるがわる持ち替えながら、窓辺のテーブルまで運んだ。


「退屈な日常には、ときどき毒薬が必要なのよ」


 妻だった女の言葉を思い出した。頻繁に酒を飲むようになったのはいつからだろうか。子ができなかったからか。体を重ねることがなくなったからか。男の出世の見込みがなくなってからか。会話がなくなってからか。それでも絶妙なバランス保ちながら、低く、ひくく、飛び続けることができるものと思っていた。愛とは無関係の惰性だけでも、生き続けることはできるはずだ、と。

 湯を沸かす。熱湯をカップに注ぐと、砂糖の結晶が一瞬にしてほどけていくのがわかる。濃さの違う溶液の屈折率の違いのせいだろうか、紅茶のなかに透明な渦が生まれている。それもそのうち消えた。

 カップを手に、窓辺の椅子にかけた。トウモロコシは手で直接持てる程度には熱が引けていた。外を見やる。目の前の看板にはシルバーのスプレーで卑猥な言葉が書かれていた。どうやってあんな高いところに落書きをするのだろう。今どうあるかを見ただけでは、過去を完全に解き明かすことなどできない。

 トウモロコシを齧る。歯形が綺麗に残る。甘い。紅茶は少し苦い。牛乳を足した。歳をとって睡眠時間が短くなるのは、死が次第に近づいているからだ。そんなことを誰かがいっていたのを、ほんやりと思い出した。昨夜、キャベツを漬けておいた。週末の映画館は混んでいるだろう。競技場へと続く道もきっと人で溢れている。外は危ない。納豆もあったはずだ。外は危ない。でも、列の後ろに並んでみるのも悪くない。どうせ円は途切れてしまうから。

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