黄色い電車を見た日

「飛ぶには、高い場所がいい?」

「飛ぶには、高い必要はない」

「だって、飛ぶには高さが必要じゃない?」

「だって、飛ぶには高さは関係ないだろ」


 ひなが巣から飛び立つ時には、高さがある。大地から空に飛ぶより空から滑空したほうが高効率だ。


「問題は、風があるかどうかだ」

「翼があるかどうかではなくて?」

「翼だけでは飛べないだろう」

「十分でしょう」

「不十分だ」

「だからって、風があればこんな翼でも飛べるだなんて言わないよね?」

「どうだろう。やってみなけりゃわからない」


 翼の形をした、子供染みたバッグを揺らして見せた。恨めしいほどの少年の才能に嫉妬する少女は、鳶ばかり見ていた。渦巻く風と戯れ身を翻す鳶は、どこか彼に似ている気がした。自由に宙を飛び回るのに、どこか寂しい。


「風次第では飛べるかもしれないな」

「そう、じゃあ、飛んで見せてよ」


 ——別に、そういう意味じゃなかったんだけどな。


 階段ですれ違ったのは、同じアパートに住む老夫婦だった。集合ポストで会えば挨拶を交わしたが、他所で会うと、彼らは女が顔見知りであることに気づかなかった。

封を切った。つつがなく過ごしています、という言葉で始まり、自分の話ばかりで語りつくされ、最後は、どうお過ごしですか、という言葉で締めくくられていた。ようやく、と女は思った。


 限りなく遠い過去のような日々は実際、まだそれほど遠く離れてはいなかった。蟹は横にしか進めない。あらゆるものの角度が変化していくだけの視野のなかでおめでたく生きている女は、単なる一匹の蟹だった。だが、男は大きな翼を持っていた。飛ぶには、それだけで十分に思えるほど、それは大きな翼だった。

 風のように通り過ぎた春、アイスクリームのように甘く気怠い夏、そして、乾いた葉のかさかさと擦れる秋と共に、男は飛んだ。


「空にだって流れはあるんだよ」


 ——なるほど。


 神社の鐘を鳴らすと、昔のようにからりと乾いた音ではなく、川の澱みで空を仰ぐ魚の、最期の鰓呼吸のような、弱々しい音だった。鳥居はいつのまにか新しくなっていた。その手前の階段の、苔むす縁石の上に立って、女は街を見下ろした。長い坂道を歩くふたりの背が見えた。その向こうで川が、昔と変わらぬ姿で流れていた。


 ——あの時だったら、私も飛べたのかな。


 今では風を捕まえて飛ぶカラスにまで嫉妬し、たとえ黒い翼でもいいから私にくださいと神様に懇願するほどまでに、飛べないと確信していた。女は、その確信こそが、自分を飛べなくしていることにすら、気付いていた。女は縁石から飛び降りると、鳥居のした、社に向かって中指立てて、エフワードを。大声で発した。

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