揺れる柳を無聊の慰みに

 疑わしいその待ち合わせは、暗闇で細い糸を手繰る類のたくみな芸当を要するものだった。場所と時間が定かならぬ時点でそれを待ち合わせと言うのかわからない。そもそも相手が誰かもわからないのだから、やはりそれは待ち合わせと言えないのかもしれない。相手が自分を待っていてくれるとも限らないので、やはりそれは待ち合わせとは程遠い。あるいは、待ち合わせの定義を書き換えてもいいかもしれない。この待ち合わせのためだけに。

 紅を引き立てるために社を囲むように濃い緑が生茂るのか、空を覆い尽くしてこの世の光をすべて奪い去るのではないかというほどの圧倒的な勢いで、木々は枝を横に大きく伸ばしている。金色の鈴ですら、その影に隠れると、くすんで見えた。あるいは、実際にくすんでいたのかもしれない。お稲荷様の像は話しかければ返事をしてくれそうなほど妙に写実的で、まん丸の可愛らしい瞳はときどき、ちらりとこちらを見た。男はにわかに臆してきた。告白すべきことはしてきたつもりだった。過去には言い尽くせぬほどの悪事を働いたかもしれない。それも全て、一点、あの不思議な一日に収束する。


 霊媒師だか巫女だか知らないが、秋の蟋蟀の声のうるさい夜に、老いた女にぞんざいに呼び止められた。無視を決め込んだはずなのに、足がなにかに絡みつかれたかのように止まり、知らぬうちに霊薬でも口から流し込まれたのか、つるつると女のいる方へと歩みが向けられた。手招きする女に従って細い路地を抜け、堤防を越えて、河原の脇の小さな淵の前で立ち止まった。女の顔は見る見るうちに変化していった。それは未来の自分だ、と男は理由もなく確信した。左右反転した未来の自分の前に立ち、そこへとだらだらと続く、くだらない、悪戯めいた稚拙な罪業で埋め尽くされた、荒廃した細い道を目の当たりにし、男は清々しいほどの諦めを胸に、安堵すら感じた。


「あなたの道は、あらかじめ定められているのです」


 薪小屋の隅には着火用の粗朶が所在なげに置かれ、そばを家守がちょろちょろと動き回ると、やがて縁石の脇に生える若い草の陰に隠れた。誰だろう。誰かの生まれ変わりに違いない。誰だろう。

 小屋の軒下には、蝙蝠が柔らかなからだを抱きしめるように、羽を畳んでぶら下がっている。ワグナーの曲が遠くから聞こえてくる。川を遡ったところに大きな屋敷がある。駅ができると聞いてすぐに花屋と酒屋を店ごと買い、鉄道開通後に大きな成功を収めた。というより、元々ここらでは名の知れた名家だったそうだが、しばらく鳴りを潜めていたというだけの話で、実際はそれより以前から、あの屋敷は建っていた。

 ワグナーとは悪趣味だ、と男は思った。

 雨が降ってきた。会えるのはきっと雨の日だ。あの日も雨が降っていただろうかと思い出そうとしても記憶は曖昧で、まばゆばかりの吹き荒ぶ風のなかに、一点の、散る花弁を探すごとくに頼りない作業となって終わるのが関の山だ。

 階段から足音が聞こえてきた。誰かが近づいている。永劫とも思えるほどの年月をこの場所で待ち続けた。駄菓子屋で施された恩を、別の誰かに施すまではきっと、この循環を閉じることはできない。だから、だから——。


「お待たせしました」

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