螺鈿のゆらぎ
言葉は生き物だ、というのはありふれた表現ではあるが、実際に呼吸をし、脈打ち、蠱惑的な匂いを発する言葉に出会ったのは、初めてだった。
冒頭の二行だけはすんなり書けたのに、タップダンスのような軽やかな指の動きは一瞬にして止まった。言葉は生き物だ。今この瞬間こそ、男は言葉の意味を強く自覚した。呼吸をやめた瞬間、そこからは、なにも生まれなくなる。呼吸を続ける限りは川の流れのように絶えることがない。個人に閉じない。読む人と書く人がいる。連関のなかの一部として男はある。そうして過去と繋がることで、言葉は呼吸を続ける。
「ねえ、お散歩行こうよ」
「えー、雨なのに?」
「雨だからだよ。雨の日にしか見れない素敵な景色を探しにさ」
「なるほど。そっか」
死んだ言葉に用はない。男は案外淡白だった。知っているのだ。言葉は色や光、においの中にあったりすることを。
いつもと違う帰り道で見つけたたこ焼き屋で八個入りを二パックも買ったことを家に着いてから後悔するとは知りながらも、ふたりは買わずにはいられなかった。食べられる。だが、多い。特にこれと言って美味しそうでもないし、有名な店でもなかった。初めて買った店で、常連という義理もない。ただ、八個入りのたこ焼きを一パックでは、足りないと思ったのだ。
「どうせなら、外で食べない?」
「えー、雨なのに」
「雨だから」
「そか。雨の日の外でしか味わえないたこ焼きの味ってのがあるってわけか」
駄菓子屋の道路に張り出した庇の下に、子供が二人座るのにちょうどいいくらいのベンチがある。店は閉まっていた。開いていることのほうが少ない。ふたりは店主の顔を一度も見たことがなかった。
「あじさい、まだ咲いてないね」
「咲いてないもなにも、葉だってまだ芽吹いてないでしょ」
「じゃあ、まずは、葉からだね」
小さい頃に飼っていた蝸牛はせっせとキャベツを食べて、そのうち透明な殻を背負った子供をたくさん産んだ。母子家庭で育った男は、女であればそのうち勝手に腹に子を宿すものと思っていた。伯母もバツイチ子持ち。蝸牛は一匹しかいなかった。女だけが自然に増殖することができて、男は言葉を残すことでしか自己を複製できないのだと思っていた。ジーンとミーム。ジーンの方が男性的な音だと思った。複製がうまくいかなければ途絶えてしまうのはどちらも同じ。まあ、繋いだところで僕や私はどうせ消えてなくなるのだけれども。
「蝸牛は紫陽花の葉を食べないんだよ。毒があるから」
「え、そうなの?」
雨は降り続けていた。家に帰らなければ買い過ぎたたこ焼きを後悔することもないと思ったが、それは間違いだった。ふたりは互いに四つずつ食べ、満足した。次第に雨が弱まっていたが、洗濯を外に干せるような天気ではなかった。
言葉は生き物だ、というのは取るに足りない陳腐な表現ではあるが、呼吸し、脈打ち、雨の匂いを嗅ぐ男と女にとっては、まぎれもない真実だ。雨音とともに言葉が生まれる。あわてる。つかまえるまえに全部流れてしまいそうだった。でも、まあ、いいか。
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