絵に描く空は嘘の色

 キャンバスのうえで絵筆はパントマイムの芸人のごとく微動だにしなかった。時計を見た。座ってから、まだ十分も経っていなかった。パレットに広げた色はテレビアニメから吸い上げたかのような鮮やかさだ。この色から美しい絵など描かれるはずがない。描く前から、既に完成しないことが決まっていた。


「それでも僕は、小説を書き続けるよ」


 ——嘘つき。


 何度パレットの上で色を混ぜても、探している色はどこにも隠れていなかった。そもそもそれは、混ぜても色にならない色でなくてはならない。女から、フッと笑いが漏れた。大学の頃に色相学の授業で色と光について学んだ。人間の表現し得る色、知覚し得る周波数、混ぜることによる色相の変化、あの頃はそれで十分だと思っていた。


「そもそも、一度完成したら、終わらなきゃならないじゃないか。そしたら、また始めなきゃならないじゃないか」


 ——嘘つき、嘘つき。


 家を出て、川沿いの道は歩かないように遠回りして蕎麦屋に行った。そこに、探しているのと似た色があるのを知っていた。友人が活花の教室に通っていると聞いて、彼女も同じ色を探しているのだと、すぐにわかった。そんなところに色はないよ、と言うべきか迷ったのは、本当はそこにその色があるかもしれないとほんの少しだけ思っていたからだった。

 のれんをくぐると、主人が聞こえるか聞こえないかの低い声で、いらっしゃい、と言った。

 女はいつも通りざるそばと天ぷらの盛り合わせを注文して、奥の座敷に掛けた。主人の態度は素っ気なく、女が常連客だとわかっていない。何度通っても馴染まないからこそ、女は居心地の良さを感じていた。浮いているからこそ見える色がある、沈み込まなければ見えない色があるのと同じように。奇妙な疎外感に親しみすら覚えた。荒波を渡る小舟のような不安定さ、生死を分けるような絶妙な胸のざわつき、吐き気を催すほどの胃の乾きを味わいたくなるたびここに赴きビールを頼んだ。泡が消えるのを待った。泡が消えるのを見計らったかのようにそばと天ぷらが運ばれてきた。

 海老の紅、紫蘇の緑、春を思わせる鮮やかさに、謀ったなと女は思う。天井を仰ぐと、垂れ下がる錦糸の先端にくくりつけられた、黄色い花が目に映った。とうに常連だと知られていたのか、と思う。こみあげてくるものを感じた。


「色を見つけるにはこの店が一番だって。だから何度でも来てしまうんだけどね」


 ——大嘘つき。


 部屋に戻った。どこにも色を見つけられなかったのに、不思議と絵筆はつるつるとキャンバスの上を滑っていく。

 虚構に彩られた空を描くには十分すぎるほどの嘘を記憶の淵から、手に溢れるほど拾い集めた。本当の空の色を見つけられないまま、女は今日も、明日も、明後日も、絵を描き続ける。


 ——嘘つき。


 あたらしく始まらなかった物語を、女はひとりで続けた。

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