椅子から見る窓の外に

 女は椅子に座る。腰掛けた木製のデスクチェアは案外、丈夫らしかった。金属かプラスチックが一般的だが、木のあたたかな感触も悪くないと思った。だが、リラックスするために椅子を探しにきたわけではない。ソファやリクライニングチェアを選べばいいだけの話になってしまう。これは、そんな単純な問題ではない。

 木製のアームレストには、ウレタンの緩衝材が薄く詰められ、表面には牛革が張られている。背もたれは木製の木肌そのままだった。座面も木製だ。アームレストだけに柔らかさを付与している。

 扇風機の風が髪を揺らした。ふと振り返ると、太った男がじっとこちらを見ていた。


「どうして、アームレストだけ?」

「ああ、その椅子はね——」


 太った男は汗を拭い、もうひとつあった色違いの椅子を引いた。どすん、と腰をおろすと、ゾウのような太い声で言った。


「こうすると、楽だろう」


 太い腕をべったりと革の上に横たえた。セイウチによく似た腕だった。海で濡れたセイウチと、汗に湿った男の腕とで、なにか差異があるだろうか。しずくがしたたっている。黒い革がそれを吸って、深海より暗い色に変わる。本物の暗闇はまだまだそんなものではない。海を吸って夜の色に近づいていく、陸上生物の革。太陽の世界で光を探す。死んだはずの牛の声が聞こえる。まだ沈みたくはない。まだ沈みたくはない。

 なるほど、と女はようやく首を縦に振った。


「車で来たので、今日持ち帰ります」

「そうですか。そしたら、少し寂しくなりますね」


 太った男は買った椅子をトランクに積み込むのを手伝ってくれた。背もたれの部分は外した。後から簡単につけられるから、と彼は言った。簡単につけられるならば、簡単に外れるということではないのだろうか、と頭に浮かんだ疑問を女は黙って飲み込んだ。正しさなど問題ではなく、信じることだけがすべてだった。

 スピードをあげた。加速している間は周囲よりも時間の進みが遅くなると聞いたことがある。だから女は移動を続けた。旅行も好んだ。生物の進化の歴史を辿れるくらいにゆるやかな時間を生きたいと望んだが、あいにく車のパワー不足、加速が足りない。だが、飛行機でも同じこと。人間は遅すぎる。

 ナビに頼ってドライブするのも飽きてきたし、車を単なる輸送や移動のための道具だとも割り切れなかった。路上で日々繰り広げられるくだらないレースにはとうにうんざりしていた。だから、女は車を降りる準備を始めるために、新しい椅子を買ったのだ。移動しない。未来に飛ぶためには、動かないことだ。


 家に着いた。さっそく仕事部屋に椅子を搬入した。スマートフォンの電源を切る。デスクの充電器にマグネットで装着する。カチ、と音を立てて吸い付く感触が快く耳に滑り込む。

 外部との接続の象徴としてあるスマートフォン。電源を切り、経路を閉じる。コミュニケーションを断絶することでデジタルな誰かの存在を殺してしまえば、有限が自分だけの専売特許ではなくなる。オンラインの情報に常にアクセスし、外部から絶えず注ぎ込まれる状態に置かれていると、川が乾くのを見たことがないのと同じで、ソーシャルメディアで流れる情報の源流としての誰かも絶えることがないような気がしてくる。ゲームの世界のような繰り返しや反復可能性とは無関係に、インターネットという場での絶えざる流れとして他者が永遠に生き続けるなんて、エンターテインメントと呼ぶには歪すぎる。経路をたったこの部屋では、女との関係を築くものだけが存在を許される。つまり、ひとりで饒舌になるくらいには完全な、孤独を手に入れた。

 椅子を組み立てた。窓、机、椅子の順に並べ、椅子に掛けた。大したことはない、ただの木製の椅子だ。ダイニングチェアのようなやわらかさとデスクチェアーの頑健さとを兼ね備えているとはいえ、椅子は椅子以上のなにかではありえない。座る、という機能さえ果たせば、それ以上望むべくもない。

 鉛筆を手にした。ノートパソコンとスマートフォンは車と一緒に処分することにした。紙と鉛筆さえあれば世界のすべてを記述できる。

 色を加えれば、なお鮮やかになる。茶碗とタオル、アクリル絵の具を用意した。大きな音の鳴る目覚まし時計をデスクの端に置いた。消したままのテレビ画面に部屋が映っているのが気になり、天袋にしまったばかりの毛布を出して掛けた。部屋の電気を消すと、サングラス越しの世界のように線と色とが曖昧になるのがわかった。

 紙に鉛筆で詩を書いていく。横に下絵を描いていく。デジタルではない紙の感触とにおい、書いたとき、描いたときの抵抗感、摩擦、揺れ、指先が些細な違いを理解しているらしく、きゃっきゃっと喜ぶ。タイプしていて喜ぶこともあった。それとは違う無邪気さがある。複製可能なデジタル化された記録より、このなまの関係性こそが真実らしいなにかを孕んでいる。なにか、はまだ女にはわからなかった。

 ハンドバッグに手を伸ばし、中から財布を取り出した。免許証、社会保険証、マイナンバーカード。車にはもう乗らないのだから、免許証は捨ててもいい。紙の上に乗せ、構図を確認する。女は、青い背景に浮かび上がるその白い顔を、どこに配置すればいいのか、ずっと探っている。固定することが必要だ。しっかりと、動かないように。

 場所を決めると、ボールペンでその輪郭をなぞって線を引いた。そこにボンドを薄く塗り、免許証を重ねた。シャンプーのにおいがふと香る。合成された化学物質が、自然をたくみに模倣するにおい。風が窓から窓へと抜けると、シーツからも似たような化学物質のかおりが立った。女は思いつくままに立ち上がると、スプーンとフォーク、そしてケチャップとマヨネーズを持って戻った。住所、氏名、交付日、取得年月日、免許の種類、それらの上からケチャップとマヨネーズをかけた。そのままの状態が保たれるようにラップを乗せた。重ねた下に、無事故無違反で過ごした女の、清潔な運転記録があった。汚れがないことを恥ずかしく思った。本当は、こんなに汚れているのに。

 カメラで撮ろう、そう思ってから、自分にはスマホ以外に撮影する道具がないことに気がついた。記録など意味がないと、自らに言い聞かせるように独りごちた。

 窓の外を見た。小さな部屋から見た外の景色は、アルミサッシの額縁に切り取られた絵画のようだった。人も、鳥も、なにもいない。風景に変化が生じない。閉じ込められている。


「所詮、真の変化を生み出せるのは内側だけなのだ」


 女は誰から言われた言葉だったか思い出そうとした。スマホは捨てる。記憶の糸口として記録に頼ることができなくなった女は、ティッシュペーパーを一枚取り出すと、重ねたばかりの免許証の上のラップを取って、紅白の味付けを綺麗に拭った。マウスパッドに紅白が散った。人間の内側にもきっと、こうしたどろどろした、粘着質でグロテスクな色彩のなにかが詰まっているはず。スリッパを脱いだ。洋服を少しずつ抜いていく。シャツ、スカート、さいごに帽子。もうしわけ程度にタオルケットで陰部を隠し、椅子に座った。服を着ていてはわからない、木の冷たさが感じられる。

 茶碗に赤、青、黄の三色を、均一に流し込む。中心でそれらが混ざろうとするのを遮るように、透明なビー玉をひとつ、置いた。


「綺麗に輝きますように。ずっとずっと、綺麗に輝きますように」


 女の絵が完成した。

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