金泥をぬった空から降る

「声が聞こえることがあるでしょう。お花の声。それに耳を澄ますのよ」


 十代のような無邪気で、それでいて壊れやすい。夕暮れを背に繊細な表情で微笑む先生は齢六十、自分よりも一回り以上も年上の、しかも既に還暦を迎えた彼女がいかにしてそんな表情で笑うことができるのか、女は活花を習うためというより、ただその秘密を知りたくて、その教室に通い続けていた。


「もう少し、静かにしないとね。自分ばかり喋ってちゃ、だめ」


 淵の前で足を止めると、彼女はその深い淀みを覗き込んだ。同じものを見ようと、女も横に立った。


「やり直しは少しも効かないから。そのつもりで、活けないと」


 爪先立ちで遠くを見た。女もその視線を追った。遠くにぼんやりと霞むビルは、花とは程遠く、無機質で、冷たいガラスとコンクリートとスチールのかたまりなのに、隣に彼女がいると、そこからも不思議と声が聞こえる気がした。


 私たちの時間軸は花のそれとは違うのです。でも、一度その形にかたまってしまえば、ほとんど動かせないのです。だから、ある意味では花とそれほど変わらないのですよ。人工的だと、馬鹿にしないでもらいたいですね。


 ——なるほど。


 川岸で遊ぶ少年少女の声は鳥のように高く、現実味に欠けた。あさなゆうな、花を切っては活け、色と光の調和に耳を澄ませる齢六十は、これほどまでに美しいものだろうか。

 女は徐々に暮れていく夕日に、伸びる影に、不条理を感じた。蹌踉と歩むカラスがなにに酔っているのかといえばまさしく、隣に立つ女のあまりの美しさのために違いない。公平な世界など望むべくもないと十代の頃には理解していたことを、あらためてこの年齢で目の当たりにして困惑するなどとは、考えも及ばなかった。


 ——なるほど。


 別段際立ったところはない。六十にしてあどけなさの残る表情こそが彼女の秘密の全てだと、女は最初そう思っていた。時間の経過とともに、ほのかに表面に被さった薄い膜が剥がれてくるのを感じた。人と人とが馴染むまでの一定期間、間に保つ薄い膜がある。最初からそうした膜の存在を感じさせないのに、確かにそれが剥がれていくのがわかった。内側から現れた彼女は赤ん坊のように丸く、やわらかく、純真無垢な、未分化の未知の生物だった。橙色に光る淡い蝋燭の火のような頼りなさに、いじらしさすら感じたものの、徐々にそのいたいけな姿は目に映る単なる幻影で、女が自らの感覚を開いていくと、実際それは、馥郁たる香りがぷんと匂い立つ成熟した生き物であることを知ってしまう。鈍色の雲の下に鳴り響くかみなりをつぼみに隠した、彼女の熱のこもった、剥いだばかりの薄いかわのしたに隠した、弾けるような赤い甘みが、あらわになった。


「同級生だったのよ」


 ——なるほど。


 西の空を仰ぐと、金星が弓形の月を追いかけて落ちるのが見えた。死が生に色を添えるというのも、いくらか真実なのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る