蚕はきょうもまゆで眠る
ふとんのなかから少しだけ隙間を開けて外を覗き見る。愛猫はまだどこか落ち着かない。この家に来て半年近く経つのに、まだ少年にしか懐いていなかった。もとはと言えば父が連れ帰った猫だった。猫だけ置いてすぐに仕事に出て、家にまるで寄り付かない。猫との関係性を深めた少年にとっては、どっちが人間で、どっちが猫なのか、ときどきよくわからなくなる。
「別に、帰ってこなくてもいいけどね」
渡した手紙の返事をいつになったらもらえるのだろうと考えるうちに眠くなって、昨日は早々に床に就いた。そのため、目が覚めるのも早かった。家にいないのは、父だけではない。兄は大学の研究室で、母は活花の教室の生徒と旅行だった。洗面所に向かう。どうせなら家に誘えばよかったと考えてから、いかがわしい考えを振り払うように、冷たい水で顔を洗った。
「でも、やっぱり誘えば良かった?」
「誰を?」
「そりゃ、あの子さ。君にも会わせてやりたいし」
「別に僕は、会いたくないけど」
とは言いながらも、彼は顔やからだを、少年の足に巻きつくように擦り付ける。だからすぐに毛だらけになる。学校ですぐに動物を飼っていることを知られる。特に、同じように動物を飼っている人は気づく。それ以外の人はただ、汚いな、というくらいにしか考えない。動物が家にいる人たちだけの空気感というものがある。
猫のふくらんだ風船のような腹のなかには、子供を宿しているのではないかと思い、獣医に連れていった。太っているだけで、そもそもこいつは雄だ、と言われた。なるほど、雄か雌かなど、考えもしなかった。この話を少女にすると、ケラケラ声を上げて笑った。ものがついているのだから気づかないわけがないのに。父も母も兄も、そんなことには関心がなかった。
「不確定な存在って、まるで、シュレーディンガーの猫みたいね」
ふたりの会話はとりとめがなく、とりとめのなさを補うために、互いにお題を出し合う、それがなぜか一層、意味や現実からふたりを遠ざけていく。
——お題。淵に身投げした少女が人生最期に空に向かって吐いた間投詞は。
「ああ」
「普通だね」
「そいや」
「ふざけすぎ」
「あらよっと」
「軽い調子が粋だね」
「どっこいしょ」
「なるほどそれだ」
そうして無意味な会話を交わす先に、きっといつか、本当に、誰かがそれほどあっさりと、小気味よく、軽やかに、命を捨ててしまうのではないかと、唐突に不安になった。ふたりは黄昏時にそっと手を繋いだ。血を薄めたような、奇妙な色に染まる西の空を見て、言った。
「そろそろ終わりにしようか」
「なにを?」
少年はまた眠くなって、再び手紙のことを考え始める。眠気を契機に手紙のことを考えるのか、手紙を契機に眠気が生じるのか、卵が先か鶏が先か、そんなことを考えているうちにますます眠くなり、ふとんに帰る。当然、愛猫も床を共にする。
「もうちょっとだけ」
誰かがそういうのを聞いた。自分の声だったか、あるいは猫の声だったか。どちらでもかまわなかった。
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