結晶に隠したウソ

 ジュエルオーキッドを店先で見つけた時、男はその場に釘付けになった。葉脈のうえを光が這って、秘密めいた根元へ向かって、暗くなっていく。会ったことがなかったと言ったが、実際は、二度か三度、彼女に会ったことがあった、葉脈の上を這う細い光が、根元へ落ちる。それが彼女に向かって伸びているような気がして、即座に手にした。春を待たずに枯れた。


「ちゃんと調べてから買えば良かったのに」


 娘の避難めいた声。子供といえども、女の嗅覚というものは馬鹿にできない。窓の外から高い声と、くすくすくすと、少女の笑い声が聞こえた。娘はおそらく、男の微かな後ろめたさを嗅ぎ取ったのだろう。その点、妻の方がいくらか鈍感だった。


「そうだな」

「もう、そんなの買ってこないでよ」

「ああ」


 増やすことには終わりがなかった。植物は絶え間なく枝分かれし、分岐し、子株をつけ、歯止めが効かない壊れたからくり人形のように、運動の連続は途絶えることを知らなかった。その終わりのない増殖に、男は夢中になった。植物のかぼそい声が聞こえるのだ。助けて、私を生かして、呼吸をさせて、光合成をさせて、もっともっともっと、と。なのに、ジュエルオーキッドだけは、違かった。持ち帰ったその夜が明けたあけぼのの頃、さよならという声が聞こえた。別れるには早すぎるのではないかと思ったが、冬の外気温にも、暖房の熱風にも耐えきれないその葉は、本来の艶と輝きを一晩にして失っていた。


 ——もし失うとわかっていたなら。


「わかっていたならどうしたっていうの?」


 男の妻は無くしたはずのコートを、記憶のどこからか引っ張り出して、家に持ち帰った。その方法を、男は知らない。妻と同じように器用に立ち振る舞えれば、少しは楽なのではないか。愛は憎しみに似ている、などと陳腐な考えは、キッチンのゴミ箱に捨ててしまって、ちょっと出てくる、とだけ妻に言い残して男は家を出た。

 マンションの廊下の手すりに、カラスが止まっていた。男が近づいても逃げる様子がなかった。太陽の光を反射し、黒い羽のなかに青や紫、緑、赤、様々な光が隠されていることがわかる。光の一粒ひとつぶを数える、夢に見た気がする。よだかになって星の中を泳いだ記憶に似ている。しばらく立ち止まって見ていると、ようやく烏は恥じらうように翼を控えめにひろげ、落ちた。男はそれを追いかけるように手すりに体重を預け、真下を覗き込んだ。翼ほとんど畳んだままのカラスが、矢のように鋭く落ち、速度を落とさないまま急速に旋回して、翼を大きく広げ、水平に飛び立った。


「ちょっと、なにしてんの?」


 妻が男の襟首を掴み、引っ張った。横には娘がたたずんでいた。


「ああ、カラスが飛んだんだよ。すごいよ」

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