龍の夢

 光が差し込む森の中に季節外れの花が咲いていた。乾いた風が吹く。花びらが散り落ち、空に舞う。黄色い花は太陽の光に透け、金色に輝いていた。葉擦れの音を聴きながらも、歩く先になにがあるのか想像してみた。わからなかった。ひとり、何かを探している。男はそれが夢だと気づいていた。明晰夢と呼ぶらしい。

 川があった。石を三つ跳んで向こう側に行くのに、さほど苦労はしない。渡らなかった。水が石にぶつかり、銀色の飛沫をあげるそばからそれがダイヤモンドの小さなかけらになるのがわかった。仰々しい輝きを放ちながら、申し訳程度にゆっくりと水に沈んでいった。そんな光景を目にしたせいか、どうしたって渡る気にはなれなかったのだ。

 川沿いに森を進んだ。滝が落ちる底に、大きな岩石に囲まれた池ができていて、水は澄んでいた。暑かった。周りにたくさんのあおい蝶が舞っていた。あおはそのうちラピスラズリになって落ちていく。死んで宝石になるなんてずるい、と男は思った。汗をかきすぎた。服は着ていないのだからと、足は自然に水へとつけられた。膝まで浸かると、全身から汗が引いていくのがわかった。仰向けに浮かんだ。真円に近い形に空が開けていた。滝の音が鳥の声も葉擦れもすべて掻き消した。尾長が飛んだ。あおくあざやかな長い尾が揺れながら空にのぼる様はまるで、鯉が滝をのぼるかのようだった。

自ら出た。日差しが肌を焼いて、水滴はすぐに鳥を追って蒸発した。滝の脇の岩に手をかけると、どうやらのぼれそうだと思った。剥き出しになった岩には、ナイフのように鋭く尖っている箇所も見受けられた。傷つかずにのぼりきることはできない。男はのぼることをすぐに諦め、周りを見回すと、池をかこむ長い丈の草の中に、一つだけ赤い色のものがあるのに気がついた。近づいてみると、そこには小さな実がついていた。摘んで食べた。甘酸っぱい。男は、裸であることを恥もしないことに気がつき、嬉しくなった。

 川とは垂直方向に森を抜けた。茫漠とした草原が広がっている。振り返ると、山とその稜線、麓に広がる深い森が目に映った。どうやら山をおりてきたらしい。

透き通るような緑の草原に風が吹くと、光が波打って寄せてきた。大きな琥珀の粒になって、男のからだを驟雨のように打ちつけた。男はすぐに森と草原の境まで逃げた。境界線を跨いでいれば安全だった。

 疲れを感じた。散らばった琥珀を拾い集めた。中に小さな人が閉じ込められたものもあった。よくよく思い出してみれば、散る花の金色の中にも、砕ける水のダイヤモンドの中にも、人が閉じ込められていたような気がする。岩の上に琥珀を並べていった。梢がざわざわ風を鳴らしていた。すっと枝を伸ばして、琥珀を再び散らしてしまった。大きな楠だった。落ち葉がたくさん散っているのを、今更ながら知った。男はなんとなく申し訳なく思い、そっと枝に触れた。新しい葉をたっぷりたたえた樹幹が、くすぐったそうにさわさわ笑った。しずかな声と共に、エメラルドが降ってきた。


「美しいものだけ愛せればよかったのに」


 男のからだは変化していく。かつてあったなにかが失われ、なかったはずのなにかが加えられた。

 滝の音や風の音も聞こえなくなった。鳥の声もなかった。夜が近づいている。西の空がはちみつのように粘度を高め、夜との境界線の厚みと反比例して、濃く、濃く、沈んでいく。夜は甘い。夜は深い。

 男は自分の肉体の変化が終わるのをじっと待った。周囲にはエメラルドと琥珀、ダイヤモンドが鏤められ、宙には金箔が舞い、細かなラピスラズリがときどき青く煌めいた。

 空間が色と光で埋められていく。命だったなにかが散って、宝石や金属に変わっていく。命の美しさなど一瞬で過ぎて消える。短い。儚い。その美しさを味わうには、注意を凝らさなければならない。でも、空間を満たす色も光も、男からすればほとんど永遠だった。命からは遠かった。冷たさしかなかった。無機質な輝きは虚しいだけだった。

 からだは完全に変化を終えた。立ち上がった。宝石を吸い込んだみたいにからだが冷たくなった。だが、輪郭は丸みを帯び、しなやかな曲線を描いている。無駄がないからだの線をみずから撫でるように指先で触れ、求めていたものだったのだと悟った。

 これは明晰夢。感覚だけが冴え渡っているのに、なにかがどうしても欠けている。靄がかかったように。指で触れてみない限りは感じられない輪郭だって、鏡の前で立って見ることはできない。夢の中の視覚は弱い。見るのではなく、触れることのほうがずっと多かった。

 遠くに塔が見える。やはり輪郭は薄い。草原の果てまで見渡せるかもしれない。あるいは、山の頂になにがあるのかわかるかもしれない。それでものぼる気にはならない。ここは夢のなかなのだ。のぼったところで、どうせ結末はわかりきっていた。現実で何度おなじことを繰り返しただろう。美しさはどこにでもあるし、生命とは無関係に存在してしまう。だとしても。命を。命だけを。血を。有限性だけを。


「美しいものだけ愛せればよかったのに」



 目が覚めた。男は自分のからだに触れてみた。シーツは夜のにおいをたっぷり吸って、白くふくらんでいる。やはり、自分でしかなかった。隣で安らかな微笑を浮かべる女に触れるでもなく、乱雑に脱ぎ散らかされた昨夜の抜け殻を拾い、着た。

 ポットで湯を沸かす。食洗機からカップを取り出し、インスタントコーヒーの瓶から大まかな量を入れる。グラスを二つ、食器棚から取り出し、水を注ぐ。一つを飲み干してから、もう一つをベッドのサイドテーブルに置く。女もすぐに目を覚ます。

 沸いた湯をカップに注いだ。朝のにおいで夜を上書きする。夜にだけ夢がある。しかも、夜から遠い場所に。叶わないなら見ない方がいいと思いながらも何度も見た明晰夢を見るために、現実を嘘で汚した。隣の部屋から音が聞こえた。女が目を覚まし、部屋に入ってきた。美しいものだけ愛せればよかったのに。そんな遠くの夜の声が聞こえる気がした。


「おはよう」


 といって、男は満面の笑みを女に向けた。

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