はなしに聞くには

 指の長い人だ。

 チョークを持つその指に引かれたから好きになったなどと言うと、どうせ笑われるのはわかっていた。かといって他の理由を挙げれば、きっと誰かと同じありきたりな恋愛話とごちゃ混ぜにさせるだろう。この思いは他の人の恋愛ごっこと違って本物なんだ。と、そんな思いだって恋愛ごっこの一部であることを自覚できないほど、もうナイーブではない。ただの祈り。そうでありたいという願い。純粋な結晶は不純物が少ないほど澄んで冴えて輝くはずだから。


「彼女を亡くしたらしいよ。ほら、多摩川の」


 噂なんて信じても意味がない。昇降口でのおざなりの会話に、彼のなにかを証明できるはずがないではないかと思いながらも、上履きに足を入れると、いつもよりも冷たく感じられた。リノリウムの床が濡れていて、キュッと音を立てる。例の彼女の泣く声のような気がした。死んでしまえば、泣くことなんてできないはずなのに。


 ——ねえ、どこまで彼につきまとうつもり?


 教室に入ると、視線が自分に集まるのがわかった。なにかが変わった。ゆっくりと自分の席に近づくと、誰もが避けるように道を開けた。花瓶に、ゆりの花が活けてあった。


「これ、誰がやったの? どうして、私の好きな花を知っているの?」


 ——って、そういう問題じゃないか。ああ。


 花に顔を近づけて、匂いを嗅いだ。甘い。

 春の夜に川辺を歩いたのは、小学校のころのことだっただろうか。彼のことはずっと知っていた。彼のそばには、いつも親友がいた。その親友のそばに、彼女がいた。どういう関係かは知らなかったけど、彼だけが、白くて、細くてしなやかな、長い指を持っていた。

 ロッカーの上に花を移すと、絶妙な具合にひかりがさし、はなびらの白が透けた。太陽は薄い雲に隠れていたが、窓辺は明るい。綺麗だなと思い、もう一度顔を近づけた。甘い。顔をあげると、空に、垂直の虹が出ていた。微かに弓形で。美しかった。


「あっ」


 ふりかえると彼がいた。


「虹だよ」

「どういうこと?」

「太陽光が直接屈折してできるんだろうね。初めて見た」

「私も」


 瞬間、雑音が閉じた。虹にだけ耳を傾ければいいのだとわかった。聞く必要のない声は、耳に届かなくなった。


 ——終わりにしよう。


 横の彼を見た。彼は泣いていた。教室の注目が集まっていることには気づいていた。無視した。無邪気ではいられない。


 ——もう、終わりにしよう。


「残念だったね」

「ああ」


 彼は涙をぬぐった。虹はすぐに消えた。もう、二度と見ることなどないのだろうと思った。

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