消えたひ消えたひ

 死は、なにに似ている?


 ——詩に似ている。


 死は、なにに似ている?


 ——恋に似ている。


 死は、なにに似ている?



 照りつける夏の高い日がアスファルトを焼き、渦巻く熱波がもののりんかくを陽炎のように曖昧模糊とした。スカートの丈が短すぎるのを夏のせいにしてしまえば、なんの躊躇も罪悪感もなく、コンビニで弁当でも買うかのように、自らの欠落を、金銭との交換によって満たすことができる。はずだったのに、余白を満たすには、彼女はあまりに言葉をもたなかった。

 夏の太陽に似ている。自由だ。重力から切り離されてしまった。羽のように軽い。軽い。軽すぎるから死んでしまったのだろうか。そんなものだろうか。男は薄い記憶の糸をたぐるようにして過去へと遡行するその過程で、光るものをいくつか見た。初夏の蛍の光のように、淡い。



「それで、利益は出るんですか」


 ホワイトボードの前で説明をしていた男の表情がこわばった。手がとまり、ふるえはじめる。単純な思考。利益になるか否か。もっとも生きやすい思考。利益になるか否か。基準さえあれば揺れることはない。地に足がつく。その感覚だけが大切だった。


「契約を取るために、すでにあなたの出張費や人件費がかかっているんです。その手数料で、本当に利益が出るのですかと聞いているんです」

 理詰め。首をギュッとしぼるようだと思った。表情はますますくもり、肩で息を始めた。

「先方の希望の数値ではこちらとしても厳しいと伝えたうえで、ようやく了承をいただいたのがこの数字で——」

「それで利益が出るのか、と私は尋ねています。もう一度お尋ねします。それで、利益が出るのですか?」

 ホワイトボードの前の男だけではない。誰もが身じろぎせず、目の前で起こる静かな暴力を見守っていた。

「……試算だと、回収するのに二年は要します」

「その契約を取るために、私たちがあなたを雇う理由がありますか。人件費で差し引きするとマイナスになってしまう人を、なぜ私たちが雇わなければならないのですか。あなたが、ここにいる意味はありますか?」

 パタン、とノートパソコンを閉じた。ミーティングの終了のサインだった。時間も金銭に換算可能なものとして処理する。置換する。儲ければ儲けるほど、死がぼやけてくると信じていたのに、むしろ迫ってくるのはどうしてなのだろう。


 アルファベットのエルの字に伸びる大きなデスクに、歪曲したモニターがある。誰もいないオフィスで、そこだけ光が灯されていた。背後のホワイトボードは、消しても、消しても、黒い繊維が残った。除菌シートで拭っても、微かに傷のような黒い線が残って消えなかった。

 消えてほしいものは消えずに、消えて欲しくないものばかりが簡単に消える。言葉で人を傷つけられることは知っていた。お金で、大抵のものが買えると知っていた。人の死だけが、夏の日差しのように鮮烈な印象をもって突き刺さるのに、自分の死だけは、遠くぼんやりとして、どこかで漠然と永遠に生が続くことを期待していた。

 愚かだと思うけれど、その愚かさを誰もがどうせ死ぬ間際まで持ち歩いている。でも、やっぱりいつか死ぬ。循環する。同じ場所をぐるぐる。習慣によって惰性を生み出し、永遠が生み出せるという幻想だけを信じて。今日も明日も、利益だけを考えて。



「ならさ、一度死んでみればいいのに。そのために、恋をすればいいと思うよ」


 ——ああ、消えたい。



「連絡していた記録はあるけど、金銭の授受や性交渉の有無に関する明確な証拠があるえわけではないので、私共としては、これ以上あなたにご迷惑をかけることはないかと思います。ですが、我々としても、度が過ぎれば、容赦はしませんよ」

「ええ。胸に留めておきます」


 灯っていたはずの火が消えた。

 淵に浮かぶ彼女の姿を想像しても、あの夜の記憶は、どうやったって消えそうになかった。

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