糸のさきに咲く
落ちる椿を目にした刹那、男の脳裏によぎったのは、茫漠としたくさはらを駆ける哀れな獣だった。群れからはぐれた瞬間から標的は絞りこまれた。草を散らし風のように走り回るが、こうなってしまえば逃げ切るのは不可能で、あっという間に追いつかれると、鋭い爪が背中に食い込み、ころんとその場にへたりこんだ。死を悟った瞬間の諦めと潔さ。潤んだ瞳は命乞いをするでもなく、抗うでもなく、ぼんやりと遠くを見つめている。剥き出しになった長い牙がやわらかい肌に突き刺さると、わずかに口の端に当惑が浮かんだ。微笑のようにも見える表情は、どこかの誰かに似て、滑稽だった。吹き出した黒い血が斑模様に飛び散り、顔を汚し、ざらざらとした舌で拭いとると、だらんと首が垂れ、泡を吹き、何度かからだを痙攣させた後、最期を迎えた。
夜の湖のように静かだった。森閑とした瞳に冴えた青が映り、にわかに世界が反転し、幾条も垂れる光を滑るように、白い鷺が空に吸い込まれて消えた。
こう感傷的になると、男はすぐに泥濘のような深い幻想に捕らえられる。
「研究熱心なのは良いことだけど、たまには外に出ましょうよ」
妻の声を聞いた気がした。そんなわけがないとは知りつつも、妻からの誘いだと思って素直に外へ出た。多摩川の土手沿いをふたりで歩いた。そこになにかあるような気がした。途中の道で、男は椿を見つけた。
「どうせそれだって、女の人に渡してしまうんでしょ?」
数種類ある薬品のうち、別の用途で使用できるものがあるのを、男の妻は知っていた。妻の死は犯した罪の代償だと男は思っていた。そうして男の過去への遡行が始まる。それは殉教者の篤い信仰心に比するほどの高尚な精神世界の再現であり、感情の機微や記憶の欺瞞も、すべてその荒れ狂う時の流れに収められていた。そこに封をしておけば人に覗かれることはないが、自分もそれには触れられない。もっとも合理的な過去への遡行の手段として、流れを別の表象として描写し直すことによって暗喩としての自らの過去を人様の目に触れる場所に置けるのだ。欠点は、予期せぬときに、唐突に過去が溢れ出すことだった。椿も、その表象の一つなのだ。
「五月になったら、また研究費が支給されるから」
「研究費って、あなた。また、よくないことをしてるんじゃないの?」
「大丈夫。大丈夫だから」
川の向こうで、中学生くらいの子供たちが並んで石段に腰掛けていた。出会ったのはちょうど、あのくらいの頃だったことを思い出す。妻に話すと、その頃のことは、あまり覚えてないと言った。
「だってあなた、冴えなかったから」
本気なのか冗談なのかわからないまま、男は曖昧にうなずいた。対岸の子供の一人が立ち上がると、他の二人を残して、去っていった。
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