催眠と幽霊と葡萄酒

 阿弥陀菩薩のような微笑には、とうてい同い年の女性のものには見えない穏やかさがあった。玉川村は川に近く、何度も大水に飲み込まれ、再生し、また飲み込まれ、再生し、を繰り返してきたため、自然に対する諦めに似た畏怖を抱いている。それゆえだろうか。男は微笑の意味をはかり兼ねた。


「なにも難しいことはありません」


 鼻先まで細い指を近づけると、魔術でもかけるかのように幽霊は男に触れ、ゆっくりと体重を預けた。疑う余地のない軽さだった。けばけばしい太古の鳥の羽のように、派手な色の紅を唇に乗せる以外に、女には色がなかった。幽霊とはそういうものなのだろうと妙に納得していた。息を飲むほどの美しさを備えているのに、性的な欲求を引き起こすなにかが欠けている。欲情しない。脊髄反射のような、突き上げる強い衝動を確かに感じるのに、性欲には届かない。しいていうならば、あらゆるものを捨ててしまいたいという欲望に近い。生み出すことを拒む欲望。


「まずは一杯、お試しくださいな」


 芝居染みた女の媚を孕んだ声音は、かえって男を安心させた。と同時に、対岸の森のあたりから小鷺が数羽飛び立つのが見えた。川の水位は昨晩の雨であがっていた。暗く濁り、深さがわからない。


「ああ、いただこう」


 男はグラスを受け取ると、まずは一口。茶のような渋みがあるが、カストリばかり口にしていたせいか、豊かな果実の香りと、僅かに舌に残る甘みに、一瞬にして酔いが回る思いがした。目頭をつよく指先で押さえて、長い息を吐いた。


「あら、もう酔ったの?」


 女は挑発するように言った。


「どうせこれも混ざり物だろう」


 負け惜しみを言ったところで、女の思うつぼだった。もう一口。さっきよりもはるかに甘く、催眠の速力が極度に増して、外に向かって働く遠心力で妄想が膨張を始めるのを感じた。


 妻を許せ。妻を許せ。妻を許せ。


 男は頭のなかで同じ言葉を繰り返した。裏切りとすら言えない。生きていくにはそれ以外になかった。男だってそれを理解していた。腹の中に宿した子供が誰の子供かなど、重要なことだろうか。膨らみ切った寛容さは、常に緊張と隣り合わせだった。ひずみはどこかで必ず直さなければならないことを男は知りながらも、それを未来に先送りにした。


 敷設予定の鉄道の枕木が、川沿いを走るトラックいっぱいに積まれていた。その前を、ボロをまとった少女が歩いていた。深海から這い出てきた生物のような白い目は見えていない。髪は櫛が通らないほどに固く絡まり、薄汚れた赤い頬には涙の跡がある。

 手紙を書こう、男がそう思うと、突如として視界があかるく開けていった。生涯、老い衰え、足が立たなくなり、呼吸が浅くなり、鼓動が止まるまで、男はこの土地で暮らし続ける。人が死ぬのを、繰り返し目にする。川辺に座って、その死を、何度も、何度も受け入れる。

 これは契約だ。生きるうえで不可避な苦悩を誰もが生まれながらに課されている。悪魔のような、妖精のような、幽霊のような女と交わした契約だ。ならば、女は誰なのだろう。


「ありがとう。妻を許せそうだ」

「そう、良かった」


 男は立ち上がると、暗いバラックを後にした。

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