本とハナとトリと木
低い位置から投げたのに、一度も水面を跳ね返らずに、石は沈んだ。
「へたくそ」
「うるさいなあ。これはまだ練習。見てて」
もう一度投げると今度は一度だけ高く跳ね、すぐに沈んだ。形が悪いのだろうか。投げ方のせいか。
「俺だったらあそこの鵜の群れあたりまで飛ばせるよ」
「はあ? そんなの無理に決まってんじゃん」
「まあ見てろよ」
少年は左の口の端だけ微かに上げると、手ごろな石を探し始めた。
「プロは道具を選ばないってもんじゃない?」
少女は文句をつけたが、少年はそれを無視して石を探し続けている。平べったく、形の綺麗な石で、投げるにはもったいない。側面に指を二本添えて、低い位置から地面すれすれをこするように腕を振って、投げた。ほう、速い。と少女は思った。浅い角度で水面に触れ、一、二、三、四回と滑るように跳ねてから、五回目でようやく高く跳ね上がった。刹那、川の一部分を黒く埋め尽くしていた鵜の群れが一斉に羽ばたき、少女はそれに気を取られ、石が水中に沈むのを見逃した。水飛沫が石を隠した。鵜は首をまっすぐに伸ばし、水面を這いつくばるように大きな翼をばたつかせ、やがて飛んだ。水面には静かな流れだけが残った。
「ほら」
少年は振り返ると、腰に手を当て、気怠そうに首を傾げて見せた。瞳は爛々と輝いていた。
「すごい」
その声が届かなかったかのように少年は顔を背け、駅を走り去る電車を見上げた。鵜の空にすがりつくような羽ばたきの狂想から逃れ、視線を噂の淵へと向けた。少女もぼんやり、そちらを見やった。
二十五年前の出来事はすっかり色あせてしまったはずなのに、その間、少女以外にそこに飛び込んだ人間はいなかった。手前の花壇に咲く花の色が、背後の木々の濃い緑のなかでよく映えているのに、見ているうちに徐々に色が溶け、甘い匂いが浮き立つような不思議な感覚だけが残された。
突如、大鷹が急降下し、花壇に消えたかと思うまもなく、フワッと飛び上がる。水面を跳ねる石に似た動きだったが、その影は、石のそれより遥かに大きく、そして速い。
浮き上がった大鷹の爪の下には、哀れな小動物が捕らえられていた。
「すごい」
少女は思わず、少年に言ったのと同じ言葉を漏らした。少年はチッと舌打ちをした。
少女は午後から駅でアルバイトだという。もう時間がないのに、言うべき言葉が見つからない。もしかしたら、難しい言葉である必要はないのかもしれない。二十五年前の少女と、目の前の少女が、なぜか重なる。帰る時間だ。「ねえ」と、少年はその背中に声を掛けた。
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