味のしないご飯

「沈黙が世界に刻む痕跡に、汝は永遠に苦しみ続けるであろう。これ、聖書に書いてあった言葉」

「どういう意味」

「世界には絶望しかないってことじゃないかな。遺書みたいな感じで、淵のそばに置かれていたって噂だよ」

「聖書って、そんなこと書いてもいいんだね」

「いつの時代だって言葉だけは自由なはずだよ。それが聖書に書かれた言葉だとしても」


 ——ま、嘘だけどね。


 秋風が吹いて少し肌寒いのに、容赦のない温もりのような彼女が、時にはうとましく感じられた。首の細いガラスの試験管を落としたとき、ガラスで手を切ったのが彼女で、それを手当てしたのが女だった。白すぎる肌の内側に血が流れていることを知って、真実なのだと思った。生きているという他愛のない真実は、女にとってはあまりに鮮やかだった。


「はじめに言葉ありき」

「それも聖書? 言葉だけで世界が作れるの?」


 体育館の床の金属の蓋が冷たくて、熱くなったお尻にはちょうどいい。体温が逃げていくのがわかる。その下には、支柱を立てるための穴が隠されている。穴。機能としての穴。支えるための穴。埋めた瞬間にだけ充足感が生じるものの、本質的な欠落が埋まることはない、穴。誰もが欠けていると確信するのに早いも遅いもない。


 ——ならば、その欠落を愛しなさい。


「イブはアダムの肋骨から作られたんだよ。だから、男は女よりも肋骨が少ない。本当に欠落があるのは女ではなく、男だってことだよね」

「聖書って、なんでも書いてあるんだね」


 微睡に似た午後の体育の授業は、座って話すうちにほとんど終わった。汗をかく少女たちは輝いて見えた。うとましくもあった。初夏の太陽を避けられるのだから、文句ばかりいってられないと思った。


「ランチ、屋上行く?」

「あれ、鍵持ってるの?」

「彼からもらった」


 二十六歳の国語教師。有名大学の大学院修士課程を卒業し、新卒で有名私立高校に就任、一年で退職してこの学校に来た彼は、一学期のうちに生徒と関係を持った。


「ふーん。いいね、行こうか」

「うん。……でもさ、結局その欠落を埋めるのは女なんでしょ? それってあまりに理不尽じゃないかな」

「そうでもないよ。ただそれが、愛の形の一つというだけだから」


 屋上には誰もいない。フェンスに近づかない限りは、他の校舎やグランドからは見えない。ふたりは暗い空を見上げた。フェンスに近づけば、川も見えるはずだった。日が沈み、暗くなれば近づける。


「いつか、私たちは死ぬの?」

「うん。死ぬよ」

「それも聖書に書いてあるの?」

「そうだね。きっと書いてある」

「聖書って、なんでも書いてあるんだね」

「言葉は世界のすべてだから」


 卒業して三年後、彼女は死んだ。彼女の部屋に残された一枚のメモ書きには『沈黙が世界に刻む痕跡に、汝は永遠に苦しみ続ける』と書かれていた。

 その日から風のあるところでご飯を食べないと、味が感じられなかった。

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