時間のとまった海で溺れる
捨てたはずのハンカチを拾ったのが祖父だなんて、単なる偶然だとは思えなかった。前の日の朝に捨てた人形が、翌朝には戻ってくる。収集車の大きな鉄の羽に飲み込まれ潰れていくのをその目で確かめたはずなのに、朝起きると枕元にそれはある。子供の頃にテレビで見た、そんな怖い話を思い出した。
——違うか。
ハンカチに執着があるのは少女で、持ち主は少女のことをなんとも思っていなかった。
入水。
ニュースを耳にしたとき、少女はそれが裏切りだと思った。一度、すれ違う程度に言葉を交わしただけの相手に感じた憎しみと嫉妬心。それでも、ハンカチがあったからこそ今の自分があると、少女は信じていた。
アタカマ砂漠。荒凉とした赤い大地には塩が混じり、ところどころに不思議な結晶を形作る。
かつて海だったそこは、地域によっては数十年間も雨が降らなかったこともあるという、乾燥の極地。
写真部の男子とは何度か一緒に出かけた。デート、というほどのものではないが、もちろんなにも意識しないわけではなかった。
写真集も、一緒に自由が丘に行ったときに買ったものだ。高かった。翌月から、カメラを買うためにバイトを始めた。お金も節約した。少女は母に頼んで、毎日学校に弁当を持たせてもらった。いつかふたりでチリに行って、生き物のいなくなった忘却の海を写真におさめたいと思ったのだ。
「馬鹿ね、そんなところに海はないの」
涙を吸ったハンカチは、甘い香りがした。
「じゃあ、どこに海があるっていうの?」
人差し指をピンと反らして空を指す。少女は、その指先から糸のような細い光が、空に向かってゆらゆらと揺れながら伸びている。視線がそれをたどるように上へと昇っていくと、そこにはきらめくシリウスがあった。
「あれは単なる恒星でしょう。核融合反応ってやつ」
少女は、どうしてそんなことを口走ったのか、自分でもわからない。皮肉のつもりか、嫌味のつもりか、高校の地学でならったばかりの小さな知識を披瀝したかったわけでもない。
「そう、言われてみればそうかもしれないね。でも、人は死んだら星になるって言うでしょう? ああ、それあげるよ。私が星になったときに、きっと、それを目印にして君を照らしてあげられるから。でも、夜の間だけだよ」
少女はそういって、片目をつむって見せた。
——あんなこと、言わなければよかった。なんてきっと、世界はそんな後悔ばかりでできてる。積もる。山になる。世界は夜になる。夜になる。夜になる。
バイトはやめなかった。貯めたお金で、祖父に新しいレンズを買ってやった。
祖父はもう絵を描かなくなったが、あらたに写真を始めた。少女は最初、そんなの逃避にすぎないとなじったが、今ではそれも、認めている。
アトリエに入ると、少女は絵筆をとる。真っ白のキャンバスに顔をすりよせるようにちかづけ、鼻いっぱいに息を吸い込んだ。新しい匂いがした。
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