意味と旅の終わり

 女は拳をかたく握りしめていた。子供が捕まえたダンゴムシを親に見せる時のようにゆっくりと指をひろげると、白いイヤホンが二つ、所在なげに転がっている。


「配偶者様のウェアラブルデバイスは、そちらだけですか?」

「あと、リングとグラスがあります。必要ですか」

「データは多い方が再現性が高まります。基本的な類型を当てはめた上で、個人の特性を付加することになりますので、微妙なニュアンスが増えれば増えるほど、造作は繊細になるかと思います。まあ、遺伝子の仕組みと同じようなものです。人間とチンパンジーは99%のゲノムを共有していると言われることがありますが、それと似たようなものですよ」

「ええ、そうなのですね」


 赤茶色の革の鞄から取り出されたのは金属製のケースだった。天井に埋め込まれたLEDに照らされ、ひんやりとした光を弾いている。女は無造作に蓋をあげ、白いセラミックのリングと、黒いフレームのグラスを手に取り、机の上に並べた。

 ラボの担当者が机の側面に触れると、ローディングが始まる。データは全てクラウド上で管理されているため、基本的にはロックを解除するのに格デバイスから直接認証する必要がある。また、それ以外のコアデータと呼ばれる個人のアイデンティティを決定する中心的な情報にアクセスするには、デバイスに残された記録そのものを取得する必要があるとのことだった。

 担当者が机に表示される様々な記号に触れるたびに、リングやグラス、イヤホンに内蔵された小さなLEDが光った。音のかわりに光の鳴る楽器を演奏しているかのようだった。薄暗いラボで織りなす青い光の綾は、目に心地よかった。


「ほとんど、瓜二つなんですよね?」


 女が尋ねた。

 担当者は視線をあげると、真正面から女を見据え、不服そうな表情を浮かべた。担当者もまた、ラボの製品のうちのなのだ。自分のアイデンティティを否定されたようで不満だったのかもしれない。他にも何人かはこうしてラボで働いているが、大多数は生身の人間だという。区別はつかなかった。


「瓜二つではありません。完全に同一なのですよ。つまり、もう人が死ぬことはなくなったのです」


 過去の十分なログさえあれば、人間を完全に再現できる。顔。体。身体的、精神的な成熟度もまた段階的に選択可能だ。

 人間はせいぜい数万のベクトルの重ね合わせに過ぎず、どれも必ず閾値内に収束するため、ありうる人間の形は有限だった。人はそれぞれ固有の肉体、精神を持つ。その唯一性を担保するのは、数万の有限なベクトルの重ね合わせがそれぞれ衝突するか否かという問題に過ぎなかった。いわゆる、誕生日のパラドックスを複数の変数で行うのだから、容易には衝突し得ない。その困難の程度が、唯一性を担保すると同時に、再現の蓋然性を限りなく低くしていた。だが、ゼロではない。まったく異なるデータがハッシュ化したときに衝突してしまうことがあるのと同じで、人間も衝突することがある。それを、意図的に生じさせることができるかどうか、それが挑戦だった。

 土台となるコードはすでにあった。エンジニアの試算によると、モデルを作成するための学習に100年はかかるとされた。


 結局、計算速度がボトルネックとなるのだ。


 2025年にIBMが10000量子ビットを超える量子コンピュータの製造に成功した。仮装ニューラルネットワークの計算における障壁は、実質的には組合せ最適化問題へと帰すことができた。そのため、通常のコンピュータとは異なる方法で計算を行う量子コンピュータの発展、とりわけ10000量子ビットを超えたことが、画期的なモデルを作成するためのブレイクスルーとなった。

 翌年、人間のアイデンティティのあり方を決定的に塗り替える嚆矢となるアプリ、OpenAIによるDoppel_Gがローンチされた。

 OpenAIが利用したデータポイントは数十万で、2018年に起きたケンブリッジ・アナリティカの事件の数千と比べると、桁が二つ違った。当時、すでにデータが人を動かすのに十分な技術水準にまでAIは至っていたのだが、人を作り出すというレベルにおいては、圧倒的に不足していた。根底にある原理は大きく違わない。人の行動原理を正確に予測することができるかという、それだけが外的・客観的に人のアイデンティティを決定する要素なのだった。

 Doppel_Gの基本的な機能は、個人のキャラクターに適合したコンテキスチュアルなコンテンツをSNSに投稿することだった。そのため、過去のFacebookやTwitter、TikTok、古くはMixiに至るまで、あらゆる個人の情報を集約し、モデルに取り込み、テストを繰り返した。そこに現在の声や表情、興味や関心、社会の変化や動向を反映した上で、本人と全くもって同水準のコンテンツが作成できるというのがDoppel_Gの一番の売りだった。

 結果的に精度の高さは賞賛されたが、精度が高すぎたが故に、社会的に広く活用されることはなかった。所詮は全世界的に個が二重になっただけで、新しいものをなにも生み出さなかったからだ。

 この失敗が、結果としてAIへの社会の関心を削いだ。所詮は新しい価値を生み出すことなどできないのだ、と。


「このRe:Reの正式なローンチから既に二年が経過しています。βを含めれば三年。お客様からのフィードバックもまた、現在進行形で常にソフトウェア全体に反映されていきます。その間、二億人以上の人格が蘇りました。まだ、一度だってエラーは確認されていないだけでなく、蘇ったお客様自身からも、ご依頼をいただいたお客様からも、大変ご満足いただいております」

「ええ、評判は伺っています。ラボの技術の確かさは微塵も疑っておりません。こう見えても、私もエンジニアの端くれでしたから」


 担当者は手を動かすのをやめ、顔をあげた。


「……へえ、どちらでお勤めだったんですか?」


 女は微笑し、首を横に振った。


「いえ、人に知ってもらうほど大きな会社じゃありませんから」


 2030年にラボによってローンチされたRe:Reは瞬く間に人口に膾炙し、過去のOpenAIによるChatGPTやDALL-Eが巷を席巻したように、あるいはそれ以上に熱狂的な盛り上がりを見せた。AIというバズワードに見向きもしなかった人までもが時代の大きな潮流には抗えず、素直に蘇生を実行し、数多の死を覆してきた。また、SNSやvlogを介して記録を残すのが常識となった。ウェアラブル端末は完全なログを残す。つまり、死んでも完全な形で蘇ることができる。誰もが死を克服した瞬間だった。

 女はその中心で、ブラックボックスの内部を覗き込む立場にいた。膨大な行列内の数値をAIが最適化することで必要なノードを結び、人にとってなにとなにが重要な関係を持ち、なにとなにが無関係かを暴き出していった。


 懐疑的だった。死んだ人間の再現というのが何を意味するのかを正確に定義しないからには、同一だなどとは言えないはずだ。違う。そもそも自分以外の人間が人間であるという事実は何によって担保されているのかという問題なのかもしれない。とすると、結局はが他者に何を見るか、その本質は何かを明瞭に定めなければならない。はじめから、自分という問題から一歩も出ていなかった。


「そろそろ終わります」


 机に表示されていたWaiting...という表示が消え、ゲージが右端まで満たされた。100%という文字とともに小さなサイレンが鳴り、担当者が机の側面にあるらしいスイッチに触れると、すべての表示が消えた。


「これで完了です。お迎えいただくまでに一二週間いただくかと思います。原型はすでにほとんど完成していますが、今の時事や状況へのアジャストがどうしても必要になってくるので」

「大丈夫、承知していますよ。ご連絡、お待ちしています」



 完成したはまるっきり人間のように見えた。話せば答えるし、触れれば柔らかくて、嫌がることもあれば、されるがままで気持ちよさそうに目を細めていることもある。

 女が望んだ、期待した通りの完成度で、まったく欠けるところがない。というより、人間的な不完全さすら再現されているようで、どこか歪にすら感じられた。

 人間から、新しい人間を作る。ジーンに依存した肉のある人間ではなく、ミームによって創造される新しい人間だった。そうして作られた人格を、もはや誰もAIとは呼ばなかった。


「あなたは自分が誰だと思ってるの」


 女の言葉に、男は一瞬だけ戸惑うような表情を見せるが、すぐに眉を寄せ、抗議の意思表示をする。


「なんだよその冗談。失礼っていうか、バカにしてるのかよ」

「いえ、なんでもないわ」


 女は落ち着いていた。カップを手に取り、紅茶をゆっくり啜った。向かいに座る男を見据えて、抑揚のない声で喋る。


「死んだはずの夫がこうして戻ってきた私の身にも少しはなってもらいたいなって、そう思っただけ」

「……そうか、悪かったよ」


 女が設定したプログラムでは、夫とされる人物は事故で死んだ。

 今まで生きたログはOpenAIによるアプリケーションから、プロンプトでいくらでも作れた。女は取捨選択だけすればよかった。

 膨大なデータを作成した上で恣意的に選択した出来事や記憶のなかには、矛盾する点もないわけではない。人格形成において矛盾は問題にはならなかった。人はそもそも、合理的にはできていない。一貫性の欠如、矛盾、人格の変化、表面的な考えや態度の変遷はむしろ人間に普遍的に共通する点ですらある。

 夫とされる彼は情報の大きな塊から削り出されたガラテアだ。と女は思った。彫像に魂を吹き込んだのが神ならば、人は、女は、神を作り出したことになる。ついに神を作り出した。

 だとしたら、人を、神は罰することができるのだろうか。


「また、ここから新しい生活が始まるのね」

「そうだよ。俺は戻ってきたんだから。もう死ぬことはないのだから。もちろん君だって死なないよ。僕らは永遠に一緒にいることになる」

「そう、素敵ね。夢みたい」

「夢なんかじゃないよ」


 男が手を伸ばして、女の頬に触れた。少し乾燥していて、肌にちくちくとした感触が残る。夫は同世代に設定していた。女は間接的に自分が老いたことを知る。不快で、思わずその手を払った。男は悲しそうな顔で女を見たが、詰ることはなかった。



「このエラー、なんでしょうか」


 閑散とした暗いラボの青白く光る机の前で、二人の研究員は立ち尽くしていた。

 背の高い男の方が、ぐっと顔を机の表面に近づける。ディスプレイを兼ねた天板には見たことのない文字列が並んでいる。一見すると音に依存しないランダムな配列なのだが、よくよく見るとところどころ単語らしい並びがあり、なにかしらの文章を成していることがわかった。


「……解析にかけてみますか?」

「ああ、そうだな」


 グラスで画像を読み込み、Re:Reとは接続されていないアプリケーションで言語解析にかけるが、rejectの表示のあと「the sentence is untranslatible.」という文が一瞬だけ浮かぶのを確認してすぐ、グラスの電源が強制的に落とされた。


「なんだこれ?」


 二人は再起動しようと虹彩認証を試みるものの、まったく反応しない。イヤホンもリングも、いつの間にか電源が落ちているらしい。Re:Reの予備電源が動作していないことから、部屋の給電が断たれているわけではない。だとしたら、何が原因なのか。

 内部のコードを確認しようとは思わない。見ることができないわけではなかったが、見る意味がなかった。人の目で検証しようにも、全人類で宇宙開闢から現在にいたるまでの時間を使って作業したとしても全体量の1%にすら届かないだろう。つまりはAIによる自動検証に頼るしかないのだが、それが正常に作動しているかもわからなかった。そのAIを検証するにもまた、膨大なコードに目を通す必要がある。そうして入れ子構造になった一番外側だけを人は目にして、それをAIだとかRe:Reと名前をつけて呼んでいるだけで、彼らはすでに人間感覚からかけ離れた領域で進化していた。


「こんなこと、はじめてですね」


 研究員が隣を見た。背の高い男が口を半ば開いたまま止まり、机の表面に吐き出されたエラーメッセージに視線を落としていた。瞳は青い光を反射し、宝石のように冷たく輝いている。彼は悲しげな表情を浮かべ、彫像へと遡っていた。



「で、最後はどうなっちゃうのさ?」


 男がコーヒーカップを片手に、窓辺の椅子に座る女に話しかけた。原稿に目を通しつつも、なんとなく気も漫ろになっている。


「うーん。結末はまだ決めてない。でも、ハッピーではないよね」

「どうだろうね。不幸でもなさそうだけど。だって、元に戻るだけでしょう?」


 女はカップを受け取った。まだ熱いコーヒーを啜る。苦い。生きている証明だと思う。生きている意味だと思う。また、熱いコーヒーを啜った。


「でも、ハッピーではないよ」

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