どんびの子

「俺、出てくよ」

「そうか。勝手にしろ」


 ――来月末で二十歳。あっというまに育っちまった。



 息子の成長が喜ばしいと同時に、寂しくもあった。ちょうど同じくらいの青年を見かけると、声を掛けずにはいられなかった。前に訪れたのは随分と昔のことで、どこになにがあるかも不案内だったが、尋ねずとものぼるのだから、尋ねる理由などなかったはずだ。


「ちょっと、遠いかもしれません」


 青年は柔らかな調子で答えた。


 ――息子とは違えなあ。なんとまあ上品だこと。


「おお、ありがとう。ちと、のぼってみらあ」


 青年たちは爽やかな笑みを浮かべ、階段をおりていった。


 ――エスカレーターなんて使うかボケ。


 六十を過ぎたとはいえ、男には現役の肉体労働者としての自負があった。足腰には自信がある。のろのろと写真を撮りながら階段をのぼる観光客を押し分け、すいすいとのぼっていく。

 中津宮ですれ違った女に、妻の面影を見た。


「やあ、元気してる?」

「アホか。死んだやつに元気かって尋ねる奴がいるか」

「そおかな?」


 猫の写真をまえにとぼけた顔して、なにもわかっていないふりをするのが常套手段。そうしてなにもかもうやむやにして誤魔化してしまう微笑が、男はたまらなく好きだった。仕事の憂さも、疲れも、家に帰れば一瞬にして吹き飛んだ。酒、煙草、博打、女、すべて手を切った。男はまっさら真人間に生まれ変わった。なにもかも、妻の力だった。


「親父、自分のことしか考えてねえじゃねえかよ」


 妻を亡くして十年、息子の横顔が妻によく似ていることに初めて気がついた。怒ったことなど一度もなかったはずなのに。


 鳶が飛ぶ。


 サムエル・コッキング苑にも展望灯台にも男は興味がない。のぼってきたものの、特に見るべきものもなく、イタリアンカフェのうえから望遠レンズで富士山を撮る男を見た。遠くを見ている。雪を冠した日本一の山が冴えた色で空に浮き上がっている。遠い、遠い。


 アイスクリームを食べる大学生たちを鳶が狙っていた。

 駅にあった注意の看板を思い出す。

 ゆっくりと旋回し、一人の女の手元を狙って急降下して見事にしとめた。きゃっと高い声が響いた。女は手元からなくなったアイスクリームが空高く飛んでいくのを、ただ呆然と眺めていた。



「勝手なこと言いやがって!」

「勝手なのはどっちだ! てめえは俺のガキだろうが、言うこと聞けや!」


 ――クソガキ。誰に似たって、そりゃあいつじゃねえ、俺か。


「うっせえ、出てくからな!」

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