星の下で運命について思うこと

「シリウス!」


 このしりとりは長くは続かない。シリウスのあとはおとめ座のアルファ星のスピカ、スピカの次にはふたご座のアルファ星のカストル。誰もルから始まる恒星の名前を知らなかった。

 真夏の山の曇天の夜空。見るべきものなどなにもない。八月だとは信じられないほどのひんやりとした山の樹々の湿り気を帯びた風が、半袖からはみだした白い腕にからみつく。


 ――奪うならば奪えばいい、光も、熱も、なにもかも。


 女は輪から外れ、いつもひとりでいる男の隣に座った。男はなにも言わなかった。女もなにも言わなかった。


「あっ」と、ふたりの声が重なった。


 騒々しい声にまぎれていた谷川のせせらぎが、光とともににわかに浮き上がった。蛍はたったの一匹だけ。酒を酌み交わしながら与太話に興じる彼らに、ゆらゆら揺れる淡い光は見えないだろう。水の音にあわせて明滅する弱い火は、じきにおとずれる生と死を予感させる。

 会うべき人に会う、こんな広い世界で、こんな暗い世界で。蛍はそのために光るのだとか。互いに隣にいる異性を意識しながらも、言葉にはしなかった。思うところは同じだ。可能性として。


 ――ほんとにそんなことができるのか。



「スピカ!」


 父の大きな手の感触は硬く、表面はざらざらしていて、時々ささくれから血がにじんでいた。少女はその手を握るのが嫌だった。時々帰っては母を傷つける父は日曜朝の悪役で、少女はそれを倒す勇敢なヒロイン、なんどそんな妄想をしたかわからない。


「行くぞ」


 夜中に起こされた。寝ぼけ眼で、今日こそ倒してやる、と少女はうそぶく。太い腕と脚に挟まれ、父とハンドルのあいだにおさまる。スクーターがスピードをあげ、ヘルメットの隙間から風が吹きこんだ。

 背中に熱を感じた。カーブで体重が外にふられても大きな脚が少女をつかまえる。眠りそうになると、こつんと後ろから頭を叩かれた。


「おい、着いたぞ」


 満点の星空。悪役の秘密基地がこれほど美しいとは、と思わず感嘆した少女はハッと我に返る。

 今日こそ倒してやる、今日こそ倒してやる。

 心の中で繰り返すうち、少女は土手から転げ落ちそうになった。「馬鹿、なにしてんだ」と父が腕をつかんで引き寄せ、脇に手をいれると、ひょいっと持ち上げた。温かい。

 光が飛び交っている。星、流れ星、幻想的な世界の熱が少女を眠りに誘う。胸に抱えられながら、肩に首をたれ、少女は光のなかを泳いでいるうち、深い、暗い、眠りに落ちた。



「あっ」と、もう一度ふたりの声が重なった。谷底からさらに数匹の蛍がせせらぎとともにあがってきた。

 さらさらと流れる清水に触れたような、冷たい感触がふたりを包む。そうだ、あの夜も冷えた。

 女は思い出した。


「カストル!」


 遠くの同級生の声が、空に高く響き渡った。

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