そこだけ少しくらい
「ねえ、まだ切れてるの?」
「買っといたよ。洗面台のとこに置いてない?」
「もう、買ったなら換えておいてよ」
――それくらい。
チャンネルを変えるつもりで手にしたリモコンを置いた。男はのっそりと立ち上がると、妻がいるはずの脱衣所の扉を開けた。いない。買った電球が袋から出されぬまま、洗濯機のうえにぽつんと置かれている。風呂の折れ戸を開くと、暗い浴室にシャワーから滴る水音が響いている。いない。電球のカバーを回す。四分の一ほど回すと、茶色く焦げついた上部が暗いなかでほとんど黒に見えた。電球を外し、新しいものを回していくと、唐突に男の目の前を、パッと閃光が散った。
男が美術準備室を独占しているのを、もうひとりの美術教師はよく思わなかった。元々は男がひとりで回していた美術の授業も、隣の中学との合併により、成り立たなくなった。少子化で校数が減り、かえってクラス数が増えたせいだ。
「先生、今日は私も六時から使いたいのですが」
「ああ、すみません。では、五時半には空けることにします」
「お願いします」
女に少しも嫌味なところはないが、その決然とした様子に男は気圧される。五時二十分には画材をしまい、準備室を出ようとすると、隣の美術室のあかりがついていた。
男がなかを覗くと、少年少女が手を繋いで大きな机に寝そべっている。真上の天井の蛍光灯だけが切れている。男はそこだけ切れたままにしていた。
美術室は通らないまま、準備室の戸を静かに開け、廊下に出た。女がいた。
「先生。私、あのふたり、注意してきますね」と、怒気を孕んだ調子。
女が美術室の引き戸に手を伸ばしたが、男はその手をつかんで、首を横に振った。そのまま強引に手を引いて、トイレの前まで歩くと、言った。
「今しかないんですよ」
「でも、許すわけにはいきません」
「許すんじゃないんです。気づいていないんです。僕たちはなにも」
「見てしまったのに気づいていないなんて、私は嘘なんてつけません」
「嘘なんてつかなくてもいいんです。ただ黙っているだけですから」
「それも嘘も同じことです」
「いいから!」
男がさらに手を強く引くと、女はバランスを崩して男にもたれかかった。
――消してなかったのか。
明るくなった浴室に、もちろん妻はいなかった。電球を取り換えることで、ようやく男は妻がもうどこにもいないことに気がついたのだ。どうしていなくなったのかわからない。いなくなってしまった理由もわからない。漠とした喪失感が空虚を埋めていた。
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