揺らめき
「優しくしてよ」
男はぽかんと口を開け、女の瞳を覗き込む。目の端に涙が滲んでいる。今にも溢れそうな涙を親指でぬぐうと、枕のうえに乱雑に広がった髪をまとめて女の右側へと撫で流す。それから、少し赤味のさした頬に触れた。
「ホントは、湖の反対から見る花火のほうが綺麗なんだけどね」
アラスカの凍てつく大地で生きる動物は、どれもどこか寂しそうだった。男が少女にアラスカを見たのは、前日に見たドキュメンタリーのせいだ。ホッキョクグマが氷を割る力強い姿さえ、何故か哀愁を誘う。彼らは所詮、滅びゆくことをあらかじめ運命付けられている。
関東出身者が多く、その土地で育ったのは彼女だけだった。民宿を経営しているのも彼女の知り合いだという。夏に川や湖で泳いだ話、素手で魚を捕まえた話、山で鹿を追いかけた話。野生動物のようにしなやかな彼女のからだはそうしてつくられた。そして、そうして失われた。
「でも、近くから見上げる花火も悪くないと思うけどな」
「違うの。遠くないとだめなの」
「どうして?」
「あんまり近すぎると、届くかなって、手を伸ばしてしまうから」
静かに体重をあずけた。目をつむると花火が見える。男は、目の前の女のむこうに、常に別の誰かを見ている。女も似たようなものだ。その重みに、別の男の重みを思い出す。繰り返し重ねられていくからだの記憶はどれもぬくくやわらかいはずなのに、角張った結晶となって腹の底に積もった。それが時々、奥底でちくちく疼く。
「手、貸して」
「え」
彼女は男の手を引いて、水辺へと歩いて行く。湖に一歩、足を踏み入れた。サンダルと足の裏の間に冷たい水が這い込んでくる。皮膚に刺さる冷たさに、反射的に足があがりそうになるのを堪えた。
「めっちゃ冷たい」
「知ってる? 完全な暗闇のなかなら、人は八キロ先の蝋燭の光ですらも見ることができるんだって」
「え」
気がつくと皆から離れ、二人になっていた。最後の花火が散った。それでも消えない光があった。
光を追いかけているうちに水は深くなり、岸には戻れないと思った。握る手だけが温かい。それ以外はアラスカの氷のように冷たい。それなのに、遠くに火が見えるから、歩みをとめられない。
もう少し。もう少し。
光は強くなっていくように見えるが、近づいているのか男にはわからない。いつしか夏が終わった。彼女はもう、そこにはいなかった。
時間が壁に吸い込まれるように消えた。部屋が二人の時間を支配している。女は満足したのか、煙草に火をつけた。男も同じように壁を背もたれにし、煙草に火をつけた。
淡い火だった。
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