まぼろしなんかじゃない

「あれって自分で光ってるのかな?」


 少女が指差した水槽で、触手を長く伸ばした海月がふわふわと揺れていた。海の月と書くのだから自分では光れないだろう、と根拠のない説明が浮かんだが、なにも言わなかった。


「海って光る生き物たくさんいるよね。夜光虫とか」


 海月に夢中になる少女の気持ちがわからなかった。初デートなんて上手くいきっこないから気楽にいけよ、という友人の言葉を思い出し、少し気が楽になる。

 名前を見るだけで胸が高鳴った。その彼女が今、となりで海月に夢中になっている。それだけで幸福ではないか。これ以上、なにを望むというんだ。ニヤつく頬を必死に引き締め、水槽を見た。その表面にうっすら映る顔は奇妙に歪んでいた。


「じゃあ、やっぱ自分で光ってるんだね、これ」


 水槽に鼻先をつけ、じっと幻想的な光に見入る。子供みたいだ。それを見て、横で頬が緩むのを我慢できない少年は、自分も子供だ、と思う。それでも子供みたいな少女が好きでたまらない。

 水槽は冷たかった。海の中も、こんなに冷たいのだろうか。週末のせいか、親子連れが多く、足元をするすると子供が駆け回っていた。なのになぜか、水の中だけはしんと静まり返っているような気がした。


「海の近くで生まれたの」


 その少女の声は、しばらく頭から離れなかった。いつ聞いたのか、どんな話をしていたのかは覚えていない。そもそも少女は、少年と話していたのではなく、近くの席で他の女子と話していたのだった。

 少女の声だけが切り取られたみたいにはっきりと耳に届いた。海の近くで生まれたの。夢にも聞いた。海の近くで生まれたの。白昼夢もあった。海の近くで生まれたの。海に行くたび彼女の声を聞いた。


 ――そうか、その声はどこか懐かしい、海のにおいがするんだ。


「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 海に行けばいつでも少女の声が聞こえたし、声を聞けばいつでも海が近づき、磯の香りと高くぬける空を感じた。


「海岸、少し歩こうよ」

「うん。でも、もう少し海月を見てから」

「ああ、うん」


 少年は周囲を見渡した。イルカショーが始まったせいか、人は少なくなっていた。若いカップルが、さっきから遠くの水槽の前にずっといるのは気づいていた。大学生くらいだろう。恥ずかしげもなく手を繋ぐ。女の方がいくらか積極的だ。少年は、少し羨ましく思った。


 ――飽きずに同じものばかり見てるのも、僕たちだけじゃないんだ。


「せっかくだから橋を渡ろうよ」


 橋から海岸線を望む。西の山の向こうに富士山が見える。何度も見たはずの景色が、いつもより澄んで見えた。

 不意に少女が少年の手を握った。えっ、と少年の口から声が漏れるのも気にせず、参道を駆けあがる。エスカーは使わないよ。神社の手前を右に行くんだ。そしたらほら、坂から海が見下ろせるんだよ。知ってるよ。だって僕も、海の近くで生まれたから。

 日が暮れてから海岸線を歩く。波打ち際を、手を繋いで。そして、青い光を見た。

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